2025年12月07日「イエス様は本気です」

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ベルゼブル論争

20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章20節~30節

原稿のアイコンメッセージ

「イエス様は本気です」

旧約聖書:イザヤ書53:12
新約聖書:マルコによる福音3:20-30       
             
I.真の解放をもたらすクリスマス
 クリスマスそれは、御子イエスが、この世界に解放をもたらすために、お生まれになられた。それを記念するためのお祝いの日です。
 形だけの解放は、解放ではありません。制度上の奴隷は、今の日本にはいないでしょう。
しかし、社会の中で本当の意味で差別が無くなり、人々が労苦から解放されなければ、それは、真の解放とは言えません。

イエスは私達を、神の恵みを無視して、傲慢と自己中心的な思いで歩んできた罪とその死の支配から解放して下さいます。まずイエスが齎して下さるのは、罪からの解放です。
罪とは、犯罪ではありません。ここにおられる人々の中で、犯罪に手を染める人はいないと思います。しかし、私達の心の中に去来する様々な思い、人愛せない心、人を赦せない心、人を裁く心、妬みや嫉妬等、 なぜ私達の心の中には、そのような思いが去来するのでしょうか。それは、私たちを創造して下さった、神に背負向けて生きているからなのです。神に背を向けて生きているということは、自分の影を見つめて生きているということです。

自分の影を見つめて生きる人生ですから、そこには、喜びも何もない、実に中途半端な人生です。
罪とは、ギリシャ語でハマルティアと言いますが、これは的外れという意味です。人生の的を
外しているのです。神という人生の的から離れて、自分の力で何とか人生を切り開こうとするのです。
 しかし、自分の力には限界がありますから、自分の能力以上のことはできないのです。ですから、神を信じ、救い主イエスがご一緒して下さる人生は、その可能性が無限に広がっていく人生なのです。神が私たちの人生に、力を与えて下さる。これに勝る恵み、祝福はありません。
第二に、死の力からの解放です。罪からくる報酬は死ですと言われていますが、生きとし生ける者いつかは死ななければなりません。

しかし、イエスを信じる人生は、私たちを、罪と死の呪いから解放して下さり、永遠の命与えて下さるのです。死よお前のおかげで私は死ぬまで不幸になってしまった。これは哲学者セネカの言葉ですが、私達は死んだらどこに行くのか、この問題に解決が与えられない限り、人生に 本当の意味での祝福はなく、この死の問題が解決されない限りは、この世界は死の力によって、歪められてしまっているのです。ですからイエスは、この歪められたお互いの関係や社会の在り方からも又解放して下さったのです。
 この二重の解放をもたらすために、イエスはこの地に来てくださいました。そしてイエスは、このマルコの福音書で本気になって神の国の訪れを語り、そして、それを見せて下さいました。
  様々な病の人々を癒されました。重い皮膚病に冒されていた人を社会復帰へと導いていかれました。悪霊につかれている人の悪霊を追い出されました。
人々から除け者にされ、誤解と偏見の中で生きていた人々をイエスはご自身の下に招き、弟子とし、更には、共に食事をされて、神の御国の豊かさを示されていきました。
 イエスは本気で神の国の訪れを語り、本気でその訪れを見せて下さったのです。ですから大切なことは、私達がこの招きに応じるということ
です。私達がこの招きに応じなければ、この準備された解放への備えは、無いに等しく、その人にとって、閉ざされたものになってしまうのです。折角罪と死からの解放という真の解放が与えられていくにも拘わらず、その招きに応じなければ、私達は、真の解放を自分のものとすることができないのです。
 このクリスマスの時に、私達一人一人、この招きに応じて、真の解放をもたらすクリスマスをご自分の者として頂きたいと思います。
II.献身的な愛ゆえに
 さて、イエスのデビュー戦、それはガリラヤ湖周辺です。その足跡を辿れば、湖畔を歩いたり、散策したり、麦畑の中を歩いたり、山に登ったりと実に牧歌的な雰囲気が漂ってきています。ですから、ルナンという神学者は、この時期のイエスの宣教活動をガリラヤの春と言ったりもしました。
  しかし現実は全く違いました。厳しい論争と葛藤の連続でした。イエスの働きに対抗する勢力が狼煙を上げて、段々とステップアップしてくるのです。
中風の人を癒された、その時には、単に心の中で、文句を言っていた人々が(ver6-7)、徴税人たちを招いてのレビのパーティーでは、弟子達に具体的に文句を言い(ver16)、断食論争では直接にイエスに論争を仕掛け(ver18)、更には弟子達が麦の穂を畑で摘んでいた一部始終を見張り(ver23-24)、更には安息日に会堂で片手の萎えた人をわざとイエスの目につくところにおいてイエスに罠を仕掛け(3:1)、更には、水と油のようなヘロデ派と律法学者たちが手を組んでイエスをどのようにして殺そうかと相談しはじめていくのです(3:6)。
 そしてそのためにはガリラヤ地方の律法学者だけではなくて、エルサレムから本家本元の律法学者を呼び寄せて監視に当たらせるような騒ぎになったのです(ver22)。
 「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と 
言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた」(ver22)。
 この段々とステップアップしてくる対抗勢力に
対してイエスは、二つの例えをもって、お答えになられます。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」(ver23)。
 イエスがこの福音書で最初に語る例え話です。それが、「二つに分割された国の例え」(ver23-26)。次に、「縛り上げられた人の例え」です(ver27)。 
 もし律法学者たちの言うことが正しいとするならば、悪の力は内部分裂をきたしており、神の国を語るまでもなく、自然に消滅していくことでありましょう。
 しかし、現実はそうではなく、これだけの抵抗勢力のステップアップにも拘わらず、イエスに従う人々は増えて行き、神の御国は広がり続けていくのです。神の御国の拡大に対する抵抗勢力がありながらも、結局はイエスの働きによって、それも粉砕されていくのです。強い人が弱い人を縛るとはそういうことなのです。そしてこれが神の国なのです。
 イエスの招きは、神の国への招きは、悪の力からの解放であるとともに、しかし、また、イエスに敵対する人々をも又招いている。そのような招きなのです。
 イエスの招きは真実です。御力に溢れているのです。イエスに敵対する人々をも招いているのです。敵対する人々をも招く、それは、リスクの伴う事です。しかし、イエスはそれでも律法学者たちをも招いているのです。
 そのイエスの心がよく表れているのが、「縛られた人」の例えです。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(ver27)。
 これは悪の力を打ち破る、神の御国の豊かさを表している御言葉です。ここでは略奪が根底にある訳ですが、この背景には、イザヤ書53:12があります。 「それゆえ私は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける」(イザヤ書53:12)。 イザヤ書53章は苦難の僕の御言葉です。私達の背きの罪を背負って刺し通され、その打ち傷によって、私たちを癒すという神の僕の受難の予告です。
 
ここに略奪のモチーフが出てくるのです。
イエスはこれを念頭に置いて、御自分がなしている真の解放への招きを語り、それは敵対する人々をも含めた全ての人々の罪を負っていくという、実に献身的な、実に大きな犠牲の伴う、愛の故であることを示しているのです。
 
イエスはご自身に敵対する人々をも又招いていて下さるのです。そして、この献身的な愛の故に、私たち一人一人も又招かれているのです。クリスマス、それは解放への招きです。そして、何よりも献身的な愛の故に、私たち一人一人を平安の中に、安らぎの中へと招いていて下さる、真実な招きなのです。
III.イエス様は本気です
「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた」(ver22)。
 
悪の力で悪の力を追い出している。ベルゼブル論争で在りますが、とんでもない思い違いです。

「同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(ver26-27)。

 悪の力で、悪の力を追い出しているとするならば、それは内部分裂をきたしていることになってしまい、その国は立ち行くことはできないで在りましょう。
 しかし、神の御国は、力強く前進しているわけですから、それは悪霊の働きによるのではなく、神の御力、すなわち、聖霊の御働き以外の何物でもなかったのです。
 
ですからイエスは言われたのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである」(ver28-30)。
 
驚くべき御言葉です。イエスの確信に満ちた御言葉です。この御言葉からわかるのは、まず何といっても、イエスは本気で、立ち向かっておられるということです。
 
スキゾ-、天を裂くようにして、御自身の下におりてこられた、聖霊の御業を、その真の解放を悪霊呼ばわりするとは、一体何事かということなのです。

そうやってイエスは、弟子達やイエスに従うことによって癒され、悪霊から解放されていった人々を、本気になって守られたのです。
 
彼らが真の解放に与ったのは、悪霊の働きによるのでは決してない。聖霊の働きによるのだ。彼らがイエスの招きに応じたのは、どこまでも聖霊の御働き以外の何物でもないのだ。
 天を裂いてでも、降りて来て下さった、この聖霊の御働きをどなたと心得るのかという、イエスの本気の招きなのです。

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は誰もイエスは神から見捨てられよとは言わないし、又聖霊によらなければ誰もイエスは主であると言えないのです」(Iコリント12:3)。
 
このイエスの、「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(ver29)。

この御言葉によって、どれだけ多くの人々が安心したことでしょうか。イエスに従ってきたら迫害はされるし、律法学者たちには目を付けられるしと、挙句の果ては、悪霊の働きによるのだと案で言われてしまった、まさにイエスに従ったが故に、踏んだり蹴ったりじゃないかと思ったと思います。
  
しかし、私達の受けた恵み、それは、聖霊の御働きによるのだ。人々は安心したと思います。しかし、この大変厳しい御言葉の中ですらも、律法学者たちのことをイエスは忘れてはいないのです。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(ver28)。

 聖霊を冒涜する罪は赦されなかったとしても、御自身を冒涜する罪は赦されるよという、イエスの深い懐なのです。
 
イエスの、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである」(ver28-30)。
 
この御言葉は、突き詰めると警告です。「永遠の罪の責めを負う」(ver29)という警告です。

 しかし、警告には必ずその裏面があるのです。その裏面は決して、そうはなってほしくないということなのです。

 どうでも良かったら、放っておかれるのではないでしょうか。

私が幼稚園の時に、八百屋さんの前から道路に飛び出したことがありました。 母が慌てて私の手を引いたのです。間一髪、大きなダンプカーが走り去っていったのです。まさに事故にあったら大変だ、愛するが故に放っておけないという親心でした。
 同じように、この大変厳しい、イエスの律法学
者たちに対する言葉、それは、イエスの愛の裏返しなのです。決して神に裁かれてほしくない、神の愛の中に生きて行ってほしい、そういう愛のこもった、実は警告だったのです。

 「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた」(ver22)。
 
ご自身の素晴らしい御業をも、悪霊呼ばわりするような律法学者たちをも包んで、勝ち経て余りあるイエスの愛がここにあったのです。いいえあるのです。
  クリスマスそれは、御子イエスが、この世界に解放をもたらすために、お生まれになられた。それを記念するためのお祝いの日です。

 この敵対者をも招かれるイエスの愛を受け取って行こうではありませんか。クリスマスそれは、あなたを罪と死の呪いから解放する、喜びの知らせが始まった日、真の解放をもたらす日、それがクリスマスなのです。
 イエス様は本気です。本気で語り、本気で癒され、本気で歩まれ、本気で招かれるのです。

 巷の華やかなクリスマスではなくて、私たちを真の解放へと導いてくださるクリスマスをあなたも過ごしていただきたいと思います。
 イエス様は本気です!!。

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