2025年06月29日「神の羊の群れを牧しなさい」

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神の羊の群れを牧しなさい

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 5章1節~7節

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聖句のアイコン聖書の言葉

長老たちへの勧め
1さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。 2あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。 3ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。 4そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、
「神は、高慢な者を敵とし、
謙遜な者には恵みをお与えになる」
からです。
6だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。 7思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 5章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

「神の羊の群れを牧しなさい」

詩編23:1-4 Iペトロ5:1-7            

I.主の心を自分の心として
「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます」(ver1)。
 「さて、わたしは長老の一人として~あなたがたのうちの長老たちに勧めます」(ver1)。
 長老という言葉は、聖書の中で、度々登場します。その文脈によって、用いられ方は変わってきます。
 長老とは、「年長者」とか「父祖」、「老人」、先代としての「父祖」という意味にも使われます。シナゴーグ、共同体の長老もおります。最高議員、サンヘドリンの長老もおりました。エルサレム会議にも(使徒15章)にも長老が登場します。
 しかし、今日の御言葉では、職制としての長老を指している言葉です。職制としての長老ですから、正に、この花小金井教会の長老に対して、語られている御言葉です。もう少し広げて、役員全体に語られている御言葉だと言っても差し支えないでしょう。更には、当然ですが、これは広く牧師や副牧師、宣教師など、教会のリーダー達に語られている御言葉です。
 ペトロは、何を長老たちに勧めているのでしょうか。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」(ver2)。
 「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」(ver2)。教会は、人の集まりですが、しかし忘れてはならないのが、神の羊の群れということです。
教会は決して、烏合の衆ではありません。神が永遠の初めからキリストにあって選び、神が同じ時代に、同じ教会に遣わして下さった、神の!神様の羊の群れなのです。
牧師の羊の群れなのではありません。長老の羊の群れなのではなく、執事の羊の群れなのでもなく、神の羊の群れなのです。
この背景には、三回もイエスを否んでしまったペトロに対して、「あなたなはわたしを愛しますか」と三回も問いかけられて、「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」とペトロを引き上げて下さった、彼の原体験があるのです。
では牧するとは、何でしょうか。それは、「世話をすることです・養うことです」、それは、「配慮する」ことです。そして、それは、「見守る」ことです。
養う=神の御言葉をもって、会衆を霊的に養うことです。それは、単に聖書の解釈を教えることではなくて、天に帰られた、榊原先生は、信徒を御言葉を通して、神の御前に立たせることだと言われました。
私を通して、今日神が語って下さった御言葉によって、皆さんお一人~が神の御前に立つ事が出来たら、今日の私の説教は、勝ちです。
以前も引用しましたが、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」(詩編23:1-4)。
私達を本当の意味で生かして下さる神の御前に、私達一人一人が御言葉を通して、立つことが出来たら、その牧会は祝福されたものとなるでしょう。
詩編23編から考えれば、良い牧者とは、「何も欠けることがない」(ver1)と言われていますから、必要を満たす牧者です。必要を満たすとは、霊的な必要を満たすことです。御言葉を通して、魂の必要を満たすことです。
更には、憩いの水のほとりに導くことであり、魂を生き返らせること。即ち、罪の内に沈み、誘惑に負け苦死んでいた魂をもう一度、立ち上がらせることです。その魂を癒すことです。
更には、「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」(ver4)。言われておりますから、守ること。これも牧会者としての大切な務めです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。これこそが、真の牧会者の姿です。
そして、それを、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」(ver2-3)。
これは自発的に、神の群れを牧会することです。強いられてする奉仕は、ストレスになり、疲れるのです。
「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません」(ver3)。「権威を振り回してもいけません」(ver3)。これは、「支配」というギリシャ語です。
私達人間は、基本的に、人を支配したいという思いがあります。思い通りに、人を動かしたいと思うのです。人を従わせたいのです。
これが、私達の心の内にある、罠です。しかし、リーダーとしては、人が付いてきてくれなかったら、それは、それで困ります。ですから、次の三つの点を考えるのが、大切なことなのではないでしょうか。
それは第一に、「神の羊の群れ」という意識です。私の群れ、私の教会なのではありません。何処までも、神の羊の群れなのです。教会は神の教会です。牧師の群れでもなければ、宣教師の群れでもない、長老の群れでもいなければ、役員の群れでもない。何処までも神の群れ、神の教会なのです。
そして、第二に、「ゆだねられている人々に対して、」と聖書は語ります。そこにいる人々は、神がその時代、その場所に、同じ教会に集めたい、送りたいと願っておられる、神の羊の群れを、私達は、何処までも主によって、委ねられているに過ぎないのです。主からお任せされているに過ぎないのです。
私は二つの群れを今牧しておりますから、主任牧師と名乗っておりますが、本質的に言えば、あくまでも教会の主任牧師は、神ご自身であり、私は副牧師でしかないのです。そして、この意識が曖昧になって行くときに、教会は混乱していくのです。
 そして、第三番目。群れの模範になるという事です。そのためには、主の模範に心を留めるという事です。
全能の神であられるにも拘らず、人となられて、民に仕え、人となられ、十字架の死に至るまでも従われた、罵られても、罵り返さず、自分を呪う者さえも、「父よ彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」神に叫ばれ、祈られた、主の模範を、私の模範として歩んで行くことなのです。
「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」(ver4)。大牧者であるイエスによって、私達は豊かな祝福を得る事が出来るのです。
多くの方々は、今日のメッセージは、教職や役員に対するメッセージだと思われると思います。
しかし、どのような小さな奉仕でも、主の心を自分の心として歩んで行くときに、いや教会の皆さんが、そのような思いで歩む群れを、主がどうして祝福して下さらないことがあるでしょうか。
II.謙遜を身に付けなさい
 さて、いよいよこの手紙も最終版です。ペトロがこの手紙を宛てた教会、今日のトルコの西北部当たりの地域の教会は、多くの困難の中にありました。
 特に大ローマ帝国の支配下にありましたから、それは、皇帝崇拝へと繋がり、当然ローマ帝国への忠誠を強いられました。
しかし、それは又、形を変えて、99%の神を知らない人々の中で、様々な異教的な事柄に忠誠を強いられていく、この現代の日本社会に生きるクリスチャンにも共通していると思います。
 それで、そのような迫害化にあるクリスチャンを励ますために、特に群れのリーダーを励ますために、この章は書かれているのです。神の羊の群れを牧しなさい。これは、三度も、イエスを否定して、「わたしの羊を飼いなさい」というイエスの言葉によって、もう一度立ち上がることができたペトロからすれば、神の羊の群れを牧する。これは最も大切な事柄でした。
「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです」(ver5)。
 「同じように」これは、長老たちが、神に従って、神から与えられた勤めを果たすのと同じように、若い人たちも、長老のリーダシップに従い、 
又協力して、共に教会を建て上げて行くのだ。ということなのです。そのために、大切なことは、「謙遜」です。聖書は、謙遜を身に付けなさいと語ります。
  当時のギリシャ、ローマと言った異教社会においては、「謙遜」は、ある意味、自己卑下に見えますから、美徳とは考えられていませんでした。日本でもそうかもしれません。生き馬の目を抜くと言われているこの社会で、謙遜に生きていたら、もしかすると馬鹿にされるかもしれません。
 しかし、クリスチャンは違います。「謙遜」は間違いなく、神が私たちに求めておられる美徳の一つです。「謙遜を身に付ける。」これは、洋服を着るように謙遜を身に着けるという事です。今日皆さんが礼拝に夫々の洋服を着て来られているのと同じ様に、「謙遜」を着なさいと聖書は語ります。
 そして、それは、互いになのです。長老だけが、牧師だけが謙遜を身に付けよという事ではありません。教会員も謙遜を身に着けるのです。お年寄りも、人生の先輩も謙遜を身に着けるのです。そして若い人も謙遜を身に着けるのです。
 そして、そのためにペトロは、大切なことを三つ語ります。第一に、「なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです」(ver5)。
 聖書は謙遜こそが、神の祝福を受ける道であると語ります。「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57:15)。
「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる」(詩編34:19)。
 謙遜は、間違いなく、神の御前に、祝福を受けていくための秘訣です。全能の神が人となって十字架の死に至るまでも従われた、これに勝る謙遜はあるでしょうか。
 神が人となる。無限なるお方が、有限を背負う。これはありえないことです。しかし、神は、イエス・キリストにおいて、この考えられないような謙遜を現されたのです。
 第二番目に、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(ver6)。
 謙遜というと、私達は腰の低い人を思い出します。しかし、クリスチャンの謙遜は、人に対する謙遜ではないのです。どこまでも神に対する謙遜です。神が私達を生かして下さっている。
私達の人生は、神の御手の中にあるのだ。だからこそ、私達は、神の御前に、遜って、謙遜に歩んで行く。私達の人生を通して、神の御栄光が現されて行くことを信じて歩んで行く。
何かを成し遂げる事が出来たとしても、それは決して自分の力だけではない。神が、私達の人生を通して、成し遂げて下さったのだ。そこにこそ思いを寄せていく、それが大切なことなのです。
 
 そして第三番目。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(ver6-7)。

 私が35歳のとき、倒れて沖縄から帰ってきて、約一年間、妻の実家に居候したときの話、何回かしたと思います。
 
しかし、あの経験を霊的に考えると、私の内面が神によって取り扱われて、高慢な心を示されて、牧会についての新しい方向性が見つかった貴重な体験でした。
 
体調を崩したとはいえ、曲がりなりにも沖縄の教会を成長させて数名だった群れが、30名ぐらいの礼拝を持てるようにまではして帰ってきたのだから、数か月、半年もあれば、どこからか招聘の声がかかると思っていました。
 しかし、全く音沙汰がないのです。そして、妻もおり、子供も二人おりましたから、経済的に正直焦りました。

約一年過ぎた頃、ある大きな教会の主任牧師の先生が、全く、責任のない、実習牧師という形で声をかけて下さったのです。なんせ倒れて、心身共に疲弊して、帰ってきたのですから、責任がない。これは、当時の私にとっては、一面で必要な働き方でした。

 しかし、少しずつ元気にもなっていましたので、責任がないというのは、物足りないような思いもまたありました。しかし、その実習牧師としての二年間の間に、私は主任牧師の先生と心の交換ノートをしたのです。そして、それが、それまでの私の人生を鳥観図、鳥の目をもって、上か
らずっと振り返って行く貴重な機会となりました。 そして、私が様々な人間関係、特に両親から受けてきた傷が、私の人格形成及び、牧会にどれだけ、大きな影響を与えていたのかということが、この交換ノートを通して、深く教えられたのです。

 そして、それは私の牧会の方向性を大きく変えていく切っ掛けになると共に、直ぐに招聘はあるだろう。私なら大丈夫だと思っていた、私の心の中にある傲慢さ。それのみならず、神の羊を牧するという働きの中で、知らず知らずの内に芽生えていた、高慢な思いに、深く気がつかされる機会となりました。

実習牧師ですから、経済的には、大変な毎日でした。妻には本当に迷惑をかけたと思います。しかし、あの1年間の居候時代、そして、2年間の実習牧師という、3年に及ぶ神のお取り扱いによって、私は改めて、主の御前に「謙遜」に歩む。そして、主は何よりも、私の人生に最善の事を為して下さるのだ。

思い煩いを神に委ねて行く、そのような霊的な、また信仰的な訓練をもまた頂いたのでした。

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119:71)。
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」(詩編119:71 新改訳2017)。

 私達の持てるものは全て神からの贈り物です。ですから、この神の御前に遜りましょう。
 そして、全てを神に委ねて行く、神が最善の事を為して下さるのだ。その信仰に生きて行く者でありたいと思います。

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