2025年03月09日「新しい人生観、新しい世界観」

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新しい人生観、新しい世界観

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章18節~23節

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召し使いたちへの勧め
18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
22「この方は、罪を犯したことがなく、
その口には偽りがなかった。」
23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章18節~23節

原稿のアイコンメッセージ

「新しい人生観、新しい世界観」

旧約聖書:イザヤ書2:4-5
新約聖書:Iペトロ2:18-23            
I.そこにあるカリスの原理
さて、イエスの生き方は、正に当時の宗教指導者達の考えを凌駕していました。
彼等の常識彼知れば考えられないようなものでした。宴会の上座を好み、人々から尊敬されることを求めていたような、当時の指導者達に、イエスは人の上に立ちたい者は仕える者になれと言われ、遊女、罪人と言った人々に仕えられたのです。
救い主であるにも拘らず、いや世界の王であるにも拘らず、エルサレムにロバの子に乗って入場なさいました。
更には、十字架に架かる最後の一週間、弟子達の前に膝まづいて弟子達の足を洗われました。
いや元々全能の神である、無限の神であるイエスが有限なる人となられて、何と犯罪人が本来であれば、架かるべき十字架に架かられ、その死に至るまで、従われました。
正にイエスの生き方は、当時の宗教指導者達の生き方からすれば、それは、「新しい人生観であり新しい世界観」でした。
さて、今日の御言葉の宛先人は、当時ギリシャ、ローマ世界に沢山いた、召使たち(奴隷)に対してでした。
当時ギリシャ、ローマの世界には、実に多くの奴隷がいたのです。今日の御言葉、「召使」は、基本的には「奴隷」という言葉です。人口の
かなりのプロポーションが奴隷でした。多くの奴隷達は、戦争に敗れた、「征服された民族」でした。当時の人口は、今の日本の人口の約半分位、6千万人位はいたのだろうと言われているのです。
貧しさの故に、自分から奴隷になる、いやそれどころから、自分の子供を奴隷として差し出すような事例も後を絶ちませんでした。大体、人口の10%は奴隷でした。しかし、奴隷といっても種々雑多です。鎖に繋がれ、鞭で追い立てられて、強制労働をするような人々もいたでしょう。 しかし、奴隷の中には、医者もいました。教師もいました王室の財産管理をするローマ貴族の為には、家庭教師迄する、奴隷もいたのです。しかし、彼等は奴隷です。彼らは主人の所有物であり、基本的に自由はないのです。今日の、御言葉はその様な奴隷達に対する御言葉です。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(ver18)。
 クリスチャンになった、召使が、奴隷が、主人に対して、横柄な態度を取ったり、無視したりしないように、進めるのです。福音によって、自由な者とされ、教会でも平等に扱われているのだから、大丈夫だと言って、横柄な態度を取ってはいけないというのです。
しかし、問題は、後半部分です。「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(ver18)。
 「無慈悲な」主人にも従え。当然何故ですかと、問いたくなるのです。そして、ペトロは今日、従うべき理由を二つ挙げています。
それは第一に、「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(ver19-20)。無慈悲な主人に従う、それが、神の御心に適うことだというのです(ver18-19)。神の御心に適う(ver19-20)。二回繰り返されていますが、これは、直訳をすれば、「神が喜ばれること」、「神の恵み」とも訳する事が出来る言葉です。しかも、「あなたがたが召されたのはこのためです」(ver21)。とまで言い切っているのです。
 この真理をパウロは、「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)。
 私は、牧師になりたての頃、若い頃の労苦は、特に牧師としての苦労は買ってでもしなさいと言われました。家に帰ってもう何もできなくて、もうバタンキューと眠るしかない、それほど迄に、身を粉にして神の為に働きなさいと言われました。ともかくも徹底的に神に仕え、働きなさいと言われました。
一週間、主の日は、朝7時半の第一礼拝から始まり、第二礼拝、第三礼拝と出て、青年担当牧師でしたから、午後6時の第四礼拝まで、毎週主に仕えていました。幼なかった新を抱っこして妻と家に着いた頃は、午後10時を回り、それから夕食でした。ハッキリ言って、若かったからできました。
火曜日から、(金)の休みを除いて、夕方5時過ぎまでの仕事が終わった後、その後どこかで必ず家庭集会がありました。(水)は、朝6時から早天祈祷会でした。
じゃあ(月)は、何もなかったのかというと、誰かしら青年が遊びに来ていました。(土)の夜も青年が泊りに来て、(日)の朝から一緒に礼拝に行くことはざらにありました。
私は楽しい反面、それでも、副牧師としての務めは大変なものがあり労苦は山のようにありました。実際にそのころ私は、本当に単純に働きました。ですから、しょっちゅう風邪をひいていました。過労から、風疹やヘルぺスになりました。しかし、苦しみに遭うとか、若い時の苦労は買ってでもしなさい。これは、今の時代、全く流行らない言葉であり、生き方です。人生楽なら楽に越したことはない。何とか、楽して、生きていきたい。そのような風潮があります。例えば、一日中、複数のパソコンと睨めっこして、株の売り買いをするだけで、一日に、数千万円も稼ぐ若者がいます。
又先日、私の携帯にもお誘いのメールが来ましたが、一日、4万円、携帯で話すだけのお仕事です。というのが来ました。明らかなる闇バイトです。昨年の流行語にもなりましたが、ホワイト案件なんて言葉に乗せられて、悪に加担して、泡銭を稼ごうとする人もいます。
 大体ホワイト案件なんて、書いてあること自体が、ブラックでありましょう。
それにしても、どうして、神は、私達が不当な苦しみを耐え忍ぶことをお喜びになられるのでしょうか。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう」(ver20)。これは論外です。
ましてや、この世の論理で、自分を苦しめた相手に仕返しをする。倍返しだ、どけ座だという言葉も流行りましたが、このような生き方もまた、論外であり、決して神が喜ばれるものではありません。
 しかし、ペトロは、不当な苦しみに遭いながら、耐え忍ぶ。 それが、神の御心に適うことだというのです。そこには間違いなく、この世界を支配している原理、罪人が取る行動とは、全く違う原理です。
そして、その原理に従うことこそが、神の目から見れば神の御心に適うこと。神の喜ばれること。神の恵みだというのです。
 ここで、御心に適うというのは、「カリス」というギリシャ語です。本来は、「恵み」と訳するべき言葉です。
 パウロは、この「カリス」、「恵み」という言葉を、罪深い者がイエスを信じる信仰によってのみ、救われるという、「信仰による救い」とほぼ同じような意味で使っているのですが、ペトロは、この言葉を、少し違った解釈で、用いています。
ペトロはイエスの次の言葉を聞いていました。マルコ6:32-36の御言葉があると言われているのです。
自分を愛さない者を愛していく。自分に対して、良いことをしない者に良いことをしていく。恐らくは返さないであろう者に、貸していく。 いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(マルコ6:32-36)。サマリーですが、
このような者こそが、神が喜んで下さる者なのだ。何故ならば、それこそが、神から恵み、カリスを受けた者に相応しい行為なのだ。神に喜ばれる行為なのだと聖書は語ります。だから、ペトロは言うのです。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(ver18-19)。
 これは私達も同じです。私達は、何故人を愛していくことができるのか。私達は、何故人を赦していくことができるのか。私達は、何故人を受け入れていくことができるのか。
それは、神が一方的に、私達を愛して、私達を赦して、私達を受け入れて下さった。一方的な恵みを与えて下さった。だから、私達もまた、 
人を愛していくことができる。人を赦していくことができる。人を受け入れていくことができるのです。
イエスは、全能の神であるにも拘らず、無限の神であるにも拘らず、有限なる人となられて、何と犯罪人が本来であれば、架かる十字架の死に至るまで、従われた。いや、十字架に架かる最後の一週間、弟子達の前に膝まづいて弟子達の足を洗われまた。
それだけではありません。自分の罵るような宗教指導者とその手下に対して、最後の最後まで彼らを呪う事をせずに、「父よ彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。
彼らのために神にとりなしの祈りされた。正にイエスの生き方は、当時の宗教指導者達の生き方からすれば、それは、「新しい人生観であり新しい世界観」でした。私達も又、このカリスの原理の中で今日も又、生かされて行く者でありたいと思います。
II.新しい人生観、新しい世界観
 さて、イエスも又不当な苦しみに遭われました。その時、イエスはどのような態度をおとりになられたのでしょうか。そして、聖書はイエスの生き方を語ります。
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(ver21-23)。
 一言でいえば、イエスは、仕返しをしなかったのです。仕返しをしない。これは人間ならありえないことです。しかしイエスは、実際にしようと思えば、幾らでもできたにもかかわらず、天から万軍の天使を送って仕返しを為さるようなこと一切なさいませんでした。
ファリサイ人、律法学者達などは一瞬の内に火で打ち滅ぼす事がおできになるにも拘わらず、そのようなことを一切なさいませんでした。 
 それどころか、イエスは十字架に架かられた時に、自分を十字架に付けた者達を呪うどころか、先程も申しました。「父よ彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているか分からないのです。」と祈られて、「正しくお裁きになる方にお任せになりました」(ver23)。
 神が全てを知っておられる。神は御存じである。その神に全てをお委ねしよう。これが、イエスご自身の生き方でした。ここには、神を全く知らない人たちとは、全く違う人生観、全く違う世界観があります。新しい人生観であり、新しい世界観です。
 「不当な苦しみ」(ver19)。という言葉があります。しかし、この時代、新約聖書が書かれる前   
は、奴隷が受ける、召使が受ける「不当な苦しみ」という言葉自体存在していませんでした。
奴隷が受ける、「不当な苦しみ」、これは、新約聖書の時代になって、初めて登場してきた概念です。当時、奴隷が、そして召使が、どんなに苦しみを受けようが、それは、決して、「不当な苦しみ」はなく、それは、奴隷が苦しみに遭うことは、全く持って「正統的な苦しみ」でしかなかったのです。
 
当時主人がなしたことは、全てが善でしかありませんでした。主人が白を黒と言えば、黒であり、主人が黒を白と言えば、それは、絶対的に白でしかなかったのです。そこには、1mmも、「不当な苦しみ」が入り込む余地はなかったのです。
 
しかし、イエスの生き方は、このような事柄に真っ向から、挑戦されました。そして、それはまさに、善をもって、悪に打ち勝つという積極的な生き方です。

力で押さえつければ、禍根が残るだけです。倍返しだ、どけ座だなんて言って、押さえつければ、そこには報復の連鎖が始まるだけです。そのことは、今のウクライナとロシアの戦争、イスラエルとハマスの戦争を見れば明らかです。
 全てを知っておいでになられ、全てを裁かれる神が、相応しい形で働かれることを、期待して、そして祈って、自分は善を行うことです。

 勿論聖書は、あのガンジーが語るような無抵抗主義を語ってはいません。しかし、聖書が戦争を積極的に勧めることもまた絶対にありません。しかし、非常に大雑把な言い方をしますが、ある一定要件が整えば、戦争することをも、聖書は許容しています。
それは、ウエストミンスター信仰告白の23章、「合法的な戦争」で言われている通りです。

しかし、その解釈をもって、現代の戦争に当てはめることは絶対にできません。牧師の部屋に書いてある通り、信条は、その文脈で読まなければなりません。

しかし、それでも、聖書は一切逆らってはいけない。一切抵抗してはいけないという考え方まではしません。それほどまでに人間の罪性を認めているのです。私達は絶対的に社会正義を追い求めるべきです。

しかし、個人的に復讐したり、仕返しをしようとするのではなくて、何処までも、寧ろ善をもって、悪を凌駕していく。悪を乗り越えていくのです。

 だからこそ、最後に私達は、イエスの模範に心を留めていくのです。イエスが全てなのです。神ご自身が一人の人となって、私に従いなさいと語って下さった。新しい人生観、新しい世界観を、その身をもって、真っ直ぐに指示して下さった。
 
天地・万物の造り主なる神が、創造者が、遜って(へりくだって)人なってこの地上に来て下さって、十字架の死に至るまでも従われて行った。しかもイエスは、御自身を十字架に架けた人々を、決して、呪ったり、罵ったりなさることはなさらなかった。

ましてや、仕返しを為さることもなかった。そのイエスが齎して下さる、新しい人生観、新しい世界観、イエスの新しい生き方そのものが、私達の人生を新しくし、この争いに満ちた世界を変えていくのです。

 私達も又、主が齎して下さった、新しい人生観、新しい世界観によって、罪に満ちたこの世界を、そして、あなたが住むその世界を新しくしていく、そのような人生を送って行く者でありたいと思います。

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