2025年02月02日「身を乗り出すような愛」

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身を乗り出すような愛

日付
説教
小堀 昇 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章22節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです。
「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、
花は散る。
25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章22節~25節

原稿のアイコンメッセージ

「身を乗り出すような愛」
旧約聖書:イザヤ書40:6-8
Iペトロ1:122-25
I.身を乗り出すような愛
 私達は、霊的に新しく生まれました。朽ちることがない、永遠の財産が天に蓄えられています。神の御力によって、守られています。ですから、試みの中を通ることもあるのですが、それでも力強く、信仰生活を歩む事が出来ます。私達は、1:1-12までの間で、一言でいえば、このように教えられてきました。
1:13-2:10までは、救われた結果です。その結果、クリスチャンがどのように歩むのか、具体的に書かれています。
「聖い生活」、「神を恐れる生活」、これらについて、御言葉に聴いて参りましたが、今日の御言葉は、「互いに愛し合うことです」。
信仰生活は、ただ魂が救われました。イエスを救い主として、信じて天国に行くことができます。それだけで、終わってしまうものではありません。
神との縦関係の祝福は、垂直関係の祝福は、今度は、横の関係、水平関係、人間関係の祝福へとつながっていきます。
信仰生活の実は、この世における現実生活の中で、生かされていくものなのです。信仰をもつという事は、何か、この世から離れて、隠遁生活をするようなものではありません。
寧ろ、クリスチャンとして、この世界の中で、どのように生きていくのか、それが、神の御前に問われてくるのです。
「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清
め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(ver22)。
ここで言われていることは、深く愛し合うことです。イエスご自身も、弟子たちに対する、告別の説教の中で、次のように言われました。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。
ペトロは、ここのところで、このイエスの言葉を、改めて繰り返しているのです。ここで、ぺトロは、単に愛し合いなさいと言っているのではありません。
三つの大切な言葉が付いています。原文の順番から行けば、「清い心で愛し合いなさい」。
愛すると言っても、私達人間の愛はいつも、何かの条件が付いています。
英語でよく三つの愛を語ります。第一が、ifの愛、「もし~なら」の愛です。もし、あなたが、もっとお金持ちなら、もし、もっと社会的な地位があったら、もっと背が高かったらという具合です。「もし~」という条件がついているのです。
第二番目に、Becase ofの愛です。「だからの愛」です「あなたがお金持ちだから、愛している」、「あなたが、背が高いから愛している」、「あなたが今の地位にあるから愛している」といった具合です。
しかし、三つ目の愛があります。それは、「In spite of」愛です。「にもかかわらず」の愛です。
「あなたが~でないにもかかわらず愛している」ということです。「背が高くなくても、社会的な地位がなくても、お金持ちでなくても」、「In spite of」にもかかわらず、愛しているという愛です。
このように、愛すると言っても、私達人間の愛はいつも、何かの条件が付いています。そして、この「清い心で」というのは、正に、「In spite of」の愛なのです。
第二が、「清い心で互いに愛し合いなさい」なのです。新共同訳は、ここのところを訳しだしてはいないのですが、原典を読んでみると、明らかに、「互い愛し合いなさい」なのです。
愛は、一方的に要求するものではありません。私達は、人にどうしても期待してしまうのです。夫は妻に、妻は夫に、先生は生徒に生徒は先生にといった具合です。
友達との関係でも、自分が相手にしてあげることよりも、どうしても、してもらうことに、私達は、関心があるのです。
そして、第三が、「深く愛し合いなさい」です。これは、「熱く」とも訳せます。新改訳2017は、このように訳しています。
この言葉の元々の意味は、「手を伸ばす」とか「身を乗り出す」という意味なのです。そして、この言葉の英語が、「ストレッチ」なのです。
自分の体を、ストレッチするように、身を乗り出すように、他の人が必要としていることを、他の人の益になるようなことを、身を乗り出してするということなのです。
この様な愛は、本当にチャレンジの愛です。夫を、妻を、親を、子供を、友人を、聖よい心で、深く愛していく。互いにそのような愛に生きていく。相手にばかり、そのような愛を期待してしまっている。もしかすると、私達は、そのように生きてしまっているかもしれません。そのような時にこそ、神を見上げるのです。そうすると、あなたのために、正に身を乗り出すようにして、愛して下さった、神の愛を見出すのです。あなたのために、身を乗り出すようにして十字架に架かって下さった、イエスを愛が分かってくるのです。
II.神の直接法
さて、愛し合うという事を、イエスが、もし単に、命じているだけならば、それは、実行できないような、重い課題を私達に与えるような、道徳宗教に成り下がってしまいます。しかし、そうではないのです。ペトロは二つの側面について語ります。

「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(ver22)。
何故私達は、「魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのでしょうか」(ver22)。
 
それは、イエスが私達を愛して下さったからです。それに尽きます。イエスの十字架の愛です。あなたのために十字架で命を投げ出して下さったイエスの愛です。この愛を受けた、だから、私達は、魂がきよめられたのです。

「偽りのない兄弟愛を抱くようになった。」同じ信仰を持つ人々への愛が、兄弟愛です。愛を受けた人は、人を愛する事が出来るようになります。神が愛して、受け入れて下さったように、人を愛する事が出来るようになる。人を赦す事が出来るようになる。人を受け入れることができるようになるのです。

少し難しいお話をしますが、新約聖書の原典のギリシャ語には、命令法と直接法があります。
 命令法とは、そのものです。命令を表します。そして、直接法は、事実をそのまま表現するのです。私達は、気が付かされるのです。命令法の前提には、必ず、神の直接法があるのです。
 つまり、神は、~をしなさいと命令する前に、神が、それをして下さった、或いは、して下さる。愛しなさいと言われる限りは、神がまず、私達を愛して下さるのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。

イエスは、私達に、愛し合いなさいと言われる前に、私達のために、十字架で命を捨てて下さったのです。

以前もお話ししました、大学の先輩に、藤崎るつきさんという方がおられました。当時日本基督教団地日立教会の牧師のお嬢さんでした。私の二学年上でした。時々お話をして、お交わりをしたことがありましたjウィ有をした。

この方が、休学をされて、フィリピンに留学されたのです。そして、ある日、海で溺れた現地の仲間を助けようとして、溺れた人を、何とか船に引き上げたのだけれども、御自分は、力尽きてしまわれて、ボートランドの海に沈んで行かれたそうです。最後の言葉は、「Oh my GOD」という言葉だったそうです。

そして、この方が、留学に旅立たれる前に、教会学校の生徒達に話されたのが、先ほどの、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12-13)。だったそうです。まさに、この御言葉を実践して、人生を歩んで行かれたのでした。

あの方が卒業した高校には、彼女の功績をたたえ、記念碑が設けられ、私が卒業した大学には、彼女の名前を冠した、基金が設けられました。イエスは、私達に、互いに愛し合いなさいと言われました。

しかし、その前に神の直接法、十字架で命を投げ出して、愛を示して下さいました。
この愛を受け取った、私達は、だから、愛し合うことができるのです。
III.主の言葉は永遠に変わることはない
そして、聖書は、私達が、新しく生まれ、何故、愛し合うようになったのか。

それは、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(ver23)。

私達をして、新しく生まれ変わらせるのは、朽ちる種ではない、朽ちない種である、神の御言葉によるのです。御言葉の戸が開けると光を放ち弁えのない者に、悟りを与えるとございます(詩編119)。

 私達をして、新しく生まれ変わらせるのは、正に、神の御言葉、そのものなのです。

「こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」(ver24-25)。

 これは、旧約聖書イザヤ書40:6-8からの引用です。イザヤ書39章には、ユダ王国が滅亡して、人々がバビロニアに連れていかれる、「バビロン捕囚」について書かれています。
 そして、40章以降には、そのバビロン捕囚からの解放が預言されているのです。

当時のバビロンは、正に繁栄の極みです。その文化、富み、そして、軍事力は、抜きに出ており、圧倒的なものでした。

 しかし、イザヤは、どんなに華やかに見えたとしても、人間が作り出すものは、一時的なものでしかないといったのです。それは、萎れていく草であり、散っていく花にすぎないのです。
 
しかし、神の民は、どんなに貧しそうに見えたとしても、無力で、惨めに見えたとしても、決して消えていくことはない。

 いつまでも残るこの神の御言葉を信じて歩んでいくならば、必ず祝福を受ける。変わることがない神の御言葉に、拠り所を置いているならば、栄えることができると、イザヤは預言したのです。

実際、イザヤが語ったときの、バビロニアの栄華はどこにあるのでしょうか。ペトロは、この御言葉を引用いたしましたが、この時代世界を支配していた、ローマ帝国の繁栄は、今どこにあるのでしょうか。今は遺跡として残っているだけです。
西ローマ帝国が滅亡して、千数百年、東ローマ帝国は、15世紀中ごろまで残りました。しかし、1453年に、オスマントルコに滅ぼされているのです。

しかし、聖書を神の御言葉として信じて、従う、クリスチャン世界中に溢れています。聖書を人生の道標として歩んでいる人々も数え切れません。

多くの迫害がクリスチャンを苦しめましたが、その迫害で、クリスチャンが絶えてしまうことはありませんでした。皆聖書の御言葉を握りしめて、力強く前進しているのです。そして、その聖書の御言葉によって、今も、多くの人々が新しく生まれ変わっているのです。
そして、人を愛する者へと変えられている。勿論私達の内には、人を愛する力はないのだけれども、神の御言葉によって、イエスの愛を知り、そのイエスの愛を受けたときに、私達もまた、人を愛する者へと変えられていくのです。

隣人を愛することは、私達にとって、大きな~チャレンジです。しかし、「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」(ver24-25)。

この神の御言葉によって、新しく生まれ変わるならば、御言葉によって、身を乗り出すように私達を愛して下さった、イエスの愛を知るならば、イエスによって愛されていることを、知るならば、私達は、お互いに愛し合うことができるのです。身を乗り出すようにして、人々を愛する事が出来るのです。

どうか、神の御言葉によって、新しく生まれ変わって、お互いに愛する者へと変えられ続けて、行こうではありませんか。
 腐敗した英国の王制を倒し、共和国を作った人にクロムウェル(1599ー1658)がいる。
 彼はこの清教徒革命のために鉄騎隊を組織して、王党派軍と戦ったとき、聖書の詩篇を歌いながら進軍したほど熱烈な信仰者である。
 彼は部下の兵士一人ひとりにもポケット聖書を与えていた。
 ある日の戦闘で傷ついた不信者の兵士が後送されてきた。
 彼は弾丸にあたり気絶していたのを、仲間の兵士によって拾われてきたのであった。
 医者が彼の傷を調べようとすると、むくっと起きあがり、あたりをけげんそうにキョロキョロ。
「おれは確かにどこか弾を受けたはずだ。
 あれ、おれは生きている」
 そして、弾丸によって穴のあけられた胸元をみた。
 こわごわ胸に手を入れてみるとそこには聖書があった。
 とりだしてみると、弾丸は聖書のまんなかを打ち抜いて、中ほどまでつらぬいて伝道の書十二章でとまっていた。そこには、
「あなたの若いに日、あなたの造り主を覚えよ」と書いてあるではないか。
 これをみて兵士は、その頑固な不信仰の心をついに打ち砕かれた。
 それからというもの彼は、熱心に聖書を読むようになり、やがてイエスを救い主と信じるようになった。


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