キリストに結ばれている者
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- 川瀬勝次 引退教師
- 聖書 ローマの信徒への手紙 8章1節~2節
霊による命
1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 8章1節~2節
「キリストに結ばれている者」
ローマ8:1-2
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。
最近ではスマホで見る人が大部分ですが、ひと昔前の通勤電車の中では、スポーツ新聞を読む男性が多くいたものです。だいたいは昨晩のプロ野球の記事を読んでいるらしいのですが、どちらが勝ったのかを知るためではありません。昨晩の試合はテレビでちゃんと見ていました。では何のためか、応援するチームの勝利をかみしめ再確認するためです。つまり勝ったときだけ買うのです。
パウロがここでやっていることと、少し似ていると思います。ある説教者は、ローマ書5章は最も重要な章であり、8章は最も感動する章であると言っています。これまで語ってきた救いの重要な教理をもう一度かみしめ8章でダメ押しの再確認をするのです。
文脈
「従って」(口語訳「こういうわけで」)という言葉で8章が始まっています。つまり、これまでとは全く異なることをここで語ろうとしているのではなく、これから語ることはこれまでの続きであるというサインです。
でもどのように続いているのでしょうか。直前の文章から続くと考えるのが普通ですが、ここではどう考えてもそうではありません。たとえば直前の24節では「わたしはなんと惨めな人間でしょう」と言ってパウロは自分の状態を嘆いていますが、これは救いの確信を語る8章の最初の雰囲気とまったく調和していません。
ではどこから続いているのか。ここでは細かい議論は省略し、結論だけにしておきます。つまり8章は5章の終わりの部分からの続きです。6章と7章は括弧に入れて読むと分かりやすいと思います。その5章のテーマは「救いの確かさ」「救いの最終性」です。救いは律法を守ることによるのではない、主イエス・キリストの十字架の死による、ただ恵みによるよるのだ、などと語ってきたパウロは、ここで誤解や疑問が入ってくることをおそれ、さらに前に進むのを少しおあずけにしたのです。それはユダヤ民族が大切にしてきた、律法の意味が無くなってしまうではないかという疑問です。
様々な角度から救いを知る
さて6章と7章のそれ以上の議論は省略して8章の内容に入っていきたと思います。8章のテーマは5章の続きであり、従ってテーマは「救いの確かさ」「救いの最終性」であり、つまり前述のように5章と同じです。
8章にはまったく新しいメッセージはありませんが、まったく同じことの繰り返しではなくこれまで語ってきたことを、少し別の角度から見ようとしているのです。昨晩テレビで見た感動を、今度は新聞の活字と写真で確認するように。救いをいつもある一つの視点からしか見ていないクリスチャンは、少し別の角度から攻撃されると倒れてしまうリスクが大きくなります。同じ場所でも地上で見るのと、最近はウクライナ戦争のニュースで出てくるように、ドローンから上空の映像を見るのとではまるで違う景色が見えます。
「私の好きなみことば」「私の好きな賛美歌」はもちろんあっても良いのですが、それだけで信仰をやっているとちょっとした試練にもつまづいてしまうかもしれません。いつもの景色とちがうと子供は迷子になってうろたえてしまうのです。だから聖書それ自体はもちろん、聖書全体の地図である「教理」を共に学ぶことが重要です。教理はドローンから見た映像のように全体像を見せてくれるからです。
罪に定められない者
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」これはキリスト教の消極的な要約です。消極的とは「何であるか」に対する「何でないか」という意味です。「何であるか」だけでよいのではと考える突進型のクリスチャンは要注意です。パウロは両方を語っているからです。「ありません」は否定ですが、非常に強い否定の言葉が用いられています。罪に定められるというような領域にはもういません、そのような状態はもう完全に終わりました、というような強い意味です。
残念ながら多くのクリスチャンはこの点で誤解しています。クリスチャンとは、罪を犯したらそれを告白し、許しを願い、そして許される人であると考えているのです。「罪に定められることはない」をそのように誤解しているのです。
その後、また罪を犯し罪に定められる、そして悔い改めまた許される。クリスチャンは罪に定められる状態と、罪に定められない状態の間を行ったり来たりすると思っているのです。
パウロはここで、このような救いの理解は完全に誤っていると言っています。キリスト・イエスに結ばれている者は、過去の罪、現在の罪、そして犯すであろう将来の罪によっても「罪に定められることはない」のです。多くのクリスチャンは過去の罪だけが許されていると考えてしまいます。「今や」という言葉はそのような考えを否定しています。パウロは8章の最後に同じことを少し言い換えています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38.39)。
聖書や教理の勉強に励み、試練に耐えて強められ、神の愛から引き離されないような強いクリスチャンになっていくのだ、と思っているクリスチャンがあるかもしれません。しかしそうではなく、「神の愛から引き離すことができない」という状態は、すべてのクリスチャンに最初からあるのです。
8章の1節で語られた救いの消極的なメッセージが、8章の最後にはさらに拡大され今度は積極的に力強く語られています。重要なのは順序であり、まず救いは「何でないか」という消極面から出発することです。救いは消極的に言えば、罪に定められた状態とそうでない状態の間を行ったり来たりするようなものではありません。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とパウロが断言している通りです。
キリストに結ばれている者
順序は逆になりましたが、パウロのクリスチャンの第二の定義は「キリスト・イエスに結ばれた者」です。これが「罪に定められることはない」ことの理由になっています。口語訳聖書は「キリスト・イエスにある者」、英語の聖書では「in Christ Jesus」で口語訳そしてギリシャ語原典と同じ。英語のアルファベットで書くと「en」。ギリシャ語で一番短い言葉の一つですが、内容は非常に大きな言葉でもあります。英語「in」 にも同じことが言えます。
8章は5章からの続きであると指摘しましたが、5章の内容は「アダムにある者」と「キリストにある者」、「in Adam」と「in Christ」、「アダムと結ばれている者」と「キリストに結ばれている者」の比較です。
人はみな「アダムと結ばれた者」として生まれてきます。それゆえ例外なく罪を持っています。パウロは3章18節で「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」と言っています。
最初の「一人」はアダムであり、後の「一人」はキリストです。人類は霊的に分けるなら、二種類しかありません。「アダムにある人」と「キリストにある人」、または「アダムに結ばれた人」と「キリストに結ばれた人」です。そして「キリストに結ばれた人」がクリスチャンです。「キリストに結ばれた人」の方が立派であるとは限りません。キリストを自分の罪の救い主と信じているだけです。 そのためキリストが十字架で成し遂げたことがそのままその人にも起こるのです。
キリストに結ばれるという関係を、主イエスは福音書で、パウロとは異なるたとえで説明しています。それは「ぶどうの木とぶどうの枝の関係」であり、命の関係です。単なる先生と生徒の関係ではなく、結ばれ一体となるような関係です。先生の模範に倣って人を赦すだけでなく、自分に悪をなす人をゆるす動機と力が自分自身の心の中にも芽生えているような関係です。
先日山梨県のブドウ園に始めて行ってきました。立派なブドウたちが収穫を待っています。ブドウのふさは、当たり前のことですがネジや接着剤でつながっているのではなく、木と枝と実は命がつながっていることがよく分かります。スーパーで買って来るブドウを木に戻そうとしてももうできません。クリスチャンとキリストの関係も命の関係です。つながっているか切れているかのどちらかです。そういう意味ではクリスチャンに上とか下はありません。つながったり切れたりすることはありませんから。
罪と死の法則
2節は1節の根拠であり、クリスチャンが罪に定められることがない理由です。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死のの法則からあなたを解放したからです。」
クリスチャンとは、すでに罪と死の法則から解放されている人のことです。私たちは他の人の見える部分が気になります。何をしているか、何をしていないか、によって判断しようとします。しかしそれはあくまでも表面であって、その人がどのような法則で生きているかが重要であるのです。
キリストと結ばれるまで、人はみな「罪と死の法則」で生きています。ニュートンが発見した万有引力の法則は、地球上のすべての物質に働いています。だから手の中にあるボールは下に落ちます。そのように人は「罪と死の法則」に支配されているのです。「法則」は「原理」(口語訳)と言い換えてもほとんど意味は同じです。英語の聖書は「law」で法律と同じ言葉です。国民はその国の法律に支配されているように、人はみな「罪と死の法則」に支配されているのです。
「罪を死の法則」とは罪を犯せば神の律法によって罰せられる、そして永遠の死に至る、という法則です。地球上のすべての物体が万有引力の法則の下にあるように、すべての人は生まれつきそのような「罪と死の法則」の下にあります。クリスチャンであろうとなかろうとそう考えています。悪い人は裁かれるべきだと思っています。ひき逃げの事件の記事を新聞で読めば、捕まえてひどい目に合わせるべきだと直感的に感じます。高齢者が逆走して事故を起こし犠牲者が出ると怒りがいっぱいになります。悪い物は裁かれる、映画やドラマのほとんどはそのような法則で作られています。それは生まれつき持っている自然の正義感であるのですが、一つだけ欠陥があるのが普通です。自分の罪の罰が除外されていることです。もし完全に除外されていなければ、自分が受ける罰は大幅に軽減されているはずです。
欠陥があるとはいえ、生まれつき持っているこのような正義感は人の魂が神から来ていることの証拠です。罪を犯したものは罰せられるというこの法則は自分自身も含まれているのです。もちろんすべての人が警察に捕まるわけではありませんが、だれも死を免れることはありません。もちろん死の軽減もありません。半分とか三分の一というような死に方はありません。人が死を恐れる理由は様々ですが、その根本にあるのは死の向こうにある裁きへの恐れです。生きている間に私には罪は一つもなかった、と言えるような人は一人もありませんから恐ろしいのです。
解放
クリスチャンとはこのような恐れから解放された者です。もちろんそれでもクリスチャンも死にます。肉体の死は避けることができません。しかし死は罪の裁きと永遠の滅びへの入口ではなく、天国への入口に変えられているのです。
クリスチャンとは「キリスト・イエスと結ばれた者」「キリストにある者」であるからです。キリストに起こったことは「キリストに結ばれている者」にも起こります。キリストとクリスチャンはそのような命の関係にあります。
キリストは消極的な意味でも積極的な意味でも、神の律法の法則から私たちを解放しました。「罪の報酬は死である」という法則から私たちを解放しました。キリストは私たちの罪をすべて背負ってくださいました。それゆえ最高の罰である十字架刑によって死なれました。罪を犯せば罰せられるという、正に「罪と死の法則」の下にキリストは来られたのです。キリストの死は病死でも自殺でも事故死でもなくローマによる処刑です。キリストはピラトのインチキ裁判によってローマによって処刑されました。当時の世界最高の権威であるローマ帝国による処刑は、宇宙最高の権威である神による処刑を象徴しています。
そうです、キリストは神よって裁かれました。自ら罪と死の法則の下に来られ裁かれたのです。キリストと結ばれた者を、罪と死の法則から解放するためです。
ブドウの木と枝
クリスチャンはもはや罪と死の法則の下にいるのでありません。「律法を守れ、そうすれば救われる」という罪と死の法則から解放され、今は命をもたらす霊の法則の下に招き入れられたのです。それが恵みの意味です。
ある時はキリストに結ばれているが、罪を犯してキリストから切り離される、そしてまた悔い改めてキリストの内に戻る。キリストと私たちはそのような関係にあるのではありません。出たり入ったりするのではありません。それは全く間違っています。
イエス様が用いられたたとえはブドウの木と枝の関係です。木と枝はそんな関係ではありません。くっついたり離れたり、出たり入ったりする関係ではありません。
最初に野球の話から説教を始めました。そこで最後にもう一度野球の話を。ずいぶん前の話ですが、たぶん中会か大会の会議の帰りにある牧師と隣り合わせになったときのことを思い出しました。その先生は自分のカバンから何やら週刊誌のようなものを取り出して私に見せました。それは何と阪神タイガース優勝記念号でした。ずいぶん前の話ですから、18年ぶりの優勝の去年のことではなくそのはるか前の2005年の優勝のことです。それをいつもカバンの中に入れて持ち歩いているそうです。昨年からは、たぶんカバンの中にはもう1冊加わり2冊入っているのかも知れません。
私たちは「良いことをしたらほめられる」「悪いことをしたら罰せられる」という「罪と死の法則」で考えることにあまりにも慣れています。ですから「キリスト・イエスに結ばれている」ことを、そのように何度でも何度でもカバンから出してきて再確認をし続けるべきです。もちろん忘れていても、そうではなくなるわけではありませんが。