死後の世界

ほとんどすべての宗教は死後の世界について教えています。人は死んだらどうなるのでしょうか。私たちは自分自身の推測も含めて、何かを信じるほかはありません。宇宙からもどってきた人はあっても、死後の世界から戻った人はありませんから。

死後の世界を証明することのできる人はいませんが、それを暗示しているものはいくつかあるように思えます。

まず、地上の不公平です。もし地上の生活がすべてであるなら、世界はあまりにも不公平であるように思えます。悪いことをして甘い汁をすいながら地上では罰を受けることの無い者、額に汗して真面目に生きながら報われることのない者。


「水戸黄門」ならば一時間の最後ですべてがすっきりすることを期待できるのですが、この世の現実はそうなっていません。さらには病気や災害もあります。「どうして私だけがこんなに苦しまなければならないの」と叫びたくもなります。死後の世界も含めて全体としてのバランスがあるように感じませんか。

第二は、死の恐れです。なぜ人はそんなに死を恐れるのでしょうか。ある人は「私は死を恐れません」と言うかもしれませんが、まともに信用することはできません。「30年以内に震度6以上の地震が起こる確立はきわめて高い」と言われても、実際は何もしようとはしないのに似ているからです。

一般的には「死」は最も避けるべき話題です。「えんぎでもない」と言われます。塩をまいてきよめようとします。最後の苦しみを恐れているという理由だけでは説明できません。この世に対する未練でしょうか。それもあるでしょうが、これも十分な説明からはほど遠いと言わなければなりません。もし死んで何もなくなるとしたら、死を恐れたりそれほどいやがる必要はないはずです。

多くの人は年をとるのは悪いことだと思っています。年をとるのは悪いこと、死ぬのは一番悪いことと思っているのです。


そうだとするならば、人生とはだんだん悪くなって、最後に一番悪いものが待っているということになりませんか。

聖書によれば、私たちが死をおそれる最大の理由は、私たちの心の中にある罪意識です。他の人の目はうまくごまかせても、神が与えた良心が私たち自身を訴えているのです。「おてんとうさまが見ている」と無意識のうちに思っているのです。

キリストは、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。お墓に入り死と墓の恐れを取り除いて復活されました。このようにして私たちも裁きと死の恐れから解放されるでしょう。死は天国への門となります。人生はだんだんとすばらしいものとなるのです。キリストが私たちのかわりに恐ろしい裁きを十字架で受けてくださいましたから。


聖書の言葉

「律法の要求する事柄がその心に記されている」、「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」ローマの信徒への手紙 2:15

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」コリントの信徒への手紙一 15:55