6.礼儀正しい人(目上・目下の人との関係で)

礼を失せず

愛は「礼を失せず」、口語訳聖書は「無作法をしない」、新改訳聖書は「礼儀に反することをせず」。「愛は礼儀正しい」ではなく、否定的な表現をしているのはなぜでしょう。もちろんどちらも最終的には意味は同じですが、「愛は礼儀正しい」と言えばおそらく私たちは、ああそうかと通り過ぎてすぐに忘れてしまうに違いがありません。何が礼儀正しいのか、正しく理解していないからです。お母さんは子供を学校に送り出すとき、「宿題忘れてない?ハンカチ忘れてない?」などと否定的に言うのではないでしょうか。「必要なものを全部持ったの」と子供に聞けば、「うん」と答えることをお母さんは知っているからです。忘れたものを忘れているから、持っていくのを忘れるのです。同様に「礼儀正しい」ことが何であるかを理解していないために、「礼を失する」のです。

「父や母とはだれのことか」というウェストミンスター大教理問答書の質問に対する答えは、「本来の両親ばかりでなく、すべての年齢や賜物での上の人、とくに家庭、教会、または国家、社会のいずれであれ、神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人をさすのである。」普通の言葉では「目上の人」です。

神の前にみんな平等だというので、どんな人でも同じように接するのが良いというのは聖書の考えではありません。日本人は礼儀正しい人と言われることが多いのですが、聖書は単にお行儀や言葉使いを教えているのではありません。家庭、教会、国家、社会の秩序は、神が定められたという理解から、クリスチャンは目上の人を敬うのでなければなりません。そうでないと「礼儀正しさ」は上の人への「へつらい」「ごますり」になりかねません。また尊敬できる人だけに礼儀正しくするのではなく、「あなたの父と母を敬え」と聖書は命じているのであり、私たちの気持ち次第で、礼儀正しくなったり無礼になったりするのではありません。尊敬できる「父母」も尊敬できない「父母」もあるからです。神の立てられた秩序の中で、クリスチャンは言葉と行動をコントロールすることが求められているのです。


目下

大教理問答書は次に、自分より下の人に対する態度に関する問と答に移ります。この命令は、逆の命令を裏に含んでいると考えるからです。目上の人を敬えというので、上の人はふんぞり返っておればよいというのではありません。それが世の中の原理ですが、私たちは下の人に対しても礼を失することがあってはならないのです。目上の人にも目下の人にも、私たちは礼儀正しくあるべきです。上の人にだけ礼儀正しい人は、あまり信用しない方がよいでしょう。

ある人の本当の人格は、下のときよりも上になったときにより明確に表れるからです。飲み屋での話題は上司の悪口が好まれるのですが、上司になったときに正体が現れるからです。下の人には礼儀がいらないのではなく、礼儀の表現が違うだけです。上の人は下の人に対して、父や母がその子に対するような思いやりを持たなければなりません。親は子供を愛しているがゆえに子供を叱責するはずです。上の者が下の者を叱ることがあっても、同じ思いからでなければなりません。

ところが多くの場合は、残念ながらそうではありません。いばれる立場の者がいばれない立場の者にいばるのです。会社の場合、社長と新入社員以外はみな、ある人の上司でありある人の部下です。そこで下のときには「へーこら」して、上のときにはいばりたくなるのが本能です。上の者は下の者を指導したり、必要であれば叱責もしなければなりませんが、それは職務に忠実であるためでなければなりません。子供が独り立ちできるように教えるのが親の役割であるように、部下が立派な社員として活躍することができるように指導するのが、上司の役割であり部下に対する礼儀であるのです。

会社の中だけでなく、私たちのほとんどは、ある時には上であり、あるときは下であるのです。嫁と姑、先輩と後輩、客と店員、先生と生徒、親と子、等など、私たちはどちらの立場にもなり得ます。そしてどちらになった場合でも「礼を失せず」行動することを忘れてはなりません。