4.ねたまない人

この箇所は、単独で礼拝説教や結婚式などで取り上げられることが多いのですが、前の章から続いている一貫したメッセージであることも忘れてはなりません。12章は教会の一致が主なテーマであり、パウロは12章の後半では、教会をキリストの体の部分であると言って、同じメッセージを語っています。

コリントの教会には当然ながら様々な人々がおり、人間的にはある人がある人よりすぐれた能力を持ち、ある人はある人よりおとっているように見えました。そして役割と能力の違いが、教会の一致を乱す原因にもなりかねません。確かにそれはこの世ではしばしば見られる光景であるのですが、私たちはもっと違う原理で他の人の能力や賜物を見るべきであるのです。パウロは「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」と言います。賜物の違いや能力の違いを教会の不一致の原因にしてはならないのです。

様々な違いが不一致の原因になるのは、劣っていると思う者がねたむからです。ねたむ人にとって、他の人の幸福は自分にとって不幸であり、「泣く者と共に泣く」ことはできても、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことができないのです。人が好む話題は他の人の幸福ではなく他の人の不幸であり、だれかをほめる話よりもだれかをけなす話の方がはるかにおもしろいのです。

ある聖書学者は、「世の中には二種類の人がいるだけだ」と言っています。「億万長者と、億万長者になりたい人」です。ねたみにも二種類あります。自分の持っていない他人のものをうらやむことと、自分の持っていないものを他人が持っているという事をうらやむことです。後者の場合、他人が持っているものがほしいのではありません。その人がそれを失うことを望んでいるだけです。お母さんは子供が100点をもらってくるとうれしいでしょう。しかし「100点の子何人いたの?」と聞きたくなるのです。そして他の子もみんなが100点をとることを望まないのです。