15.バレンタイン・デー(おまけ)

バレンタイン・デーは、女性から男性にチョコレートをプレゼントして愛を告白する日として知られています。バレンタイン・デーの起源については様々な説があり、決定的なものはありません。チョコレートに関しては、最初に日本でバレンタイン・デーを紹介したのがモロゾフであったことが関係しているのかもしれません。戦後ある別の菓子メーカーが最初にチョコレートを伊勢丹で販売しましたが、売上は5個分の170円だったそうです。バレンタイン・デーとチョコの関係はどうも日本発らしく、韓国などアジアの一部の国にはあっても本場のヨーロッパではそのような習慣はないそうです。もちろん義理チョコもホワイトデーもありません。

ここまではインターネットで私が調べたことからご紹介したのですが、今日はバレンタイン・デーの中心的なテーマである「愛」について、今度は聖書から考えたいと思います。私は外からはどのように見えるか分かりませんが、自分では結構ロマンチックな人間であると思っています。教会ではバッハやジュネーブ詩編歌など古くて堅苦しい音楽の話ばかりしていますが、本当に私の心にぴったりとはまるのはやはりロマンチックなロマン派の音楽です。

恋人同士が楽しそうにしているのを見ると、いつまでもロマンチックな関係が続けばいいなと思うのですが、現実はなかなかそうならないようです。先日車のラジオから、少しドキッとするような歌が聞こえてきました。

「年をとって、僕の髪の毛がなくなっても、まあずいぶん先のことだけど、僕に送ってくれるかな、バレンタイン・カードや、バースデー・カードやワイン1瓶とか。もし夜遊びして2時45分まで帰って来なかったら、ドアをロックしてしまうのかな。まだ僕を必要だと思ってくれるかな。まだ僕の飯の支度してくれるかな。僕が64歳になっても。君だって歳をとる。もし居てくれと言えば、君といっしょに居られるんだけど。僕なら上手にヒューズを替えられるよ、電球が切れたときにも役に立つよ。君はセータを暖炉のそばで編み、日曜の朝はドライブ、そして庭いじりやら、草むしり。これ以上のこと、だれが望むかい。」(インターネット、「英語21」より)

「ドキッとする」と申し上げたのは、「もし髪の毛がなくなっても」という部分ではなく、「もし64歳になっても」という言葉です。私はすでに64歳を通過していますから。


「髪の毛」

バレンタイン・デーの象徴である「愛」という言葉から、日本では男と女の恋愛の感情を第一にイメージする人が多いでしょう。日本の歌謡曲やJポップでも、ヨーロッパやアメリカのポップスでも、モーツアルトやプッチーニのオペラでも、恋愛をテーマとした歌や音楽は圧倒的に多いのです。ちなみに先ほどの歌詞は、ビートルズの歌の一部ですが、何十年後も夫婦の愛が続いていたらいいなという内容です。とくに大切なのは、「僕に髪の毛がなくなっても」という神学的な部分です。これは少し大げさに言えば、単なる恋愛の感情を越えた、もっと愛の本質的なことを歌っているようにも思えます。

少しこのように言いかえてみましょう。「東大出、大蔵省、高給取り、背はスラリと高く、ハンサム」、もしこのような男性と結婚した女性があるなら、これから愛がほんものであるかどうかが試されなければならない。夫についている価値を愛しているのか、それともその人自身を愛しているのか。

先ほどの歌は、「僕の髪がなくなっても、バースデー・カードやバレンタイン・カードをくれるかな」と心配しています。子供が100点を取ったとき、運動会で一等賞になったとき、当然親はいっしょになって喜びお祝いをするでしょう。バースデーをお祝いするのはそれとは異なる重要な面があります。その子供に付属している何らかの価値ではなく、その子の存在自体をお祝いするのが誕生日であるからです。

もちろん人とその人に付随する価値を切り離すことはできません。しかし付属品の方を実は愛しているなら、その価値が失われたとき、あるいはもっと価値あるものを見つけたとき、その愛は危ないのです。