14.愛の反対語は何?

愛の反対語は何でしょうか。あなたはおそらく、「憎しみ」と言われるでしょう。もちろんそれは間違ってはいませんが、不十分であると思います。愛の最初の定義である「忍耐強い」(寛容)の反対語に対しては、確かに「憎しみ」がふさわしいかも知れません。しかし、愛のその他の定義に関してはそれほどぴったりするように思えません。愛の反対語は、「自己中心」です。

13章にある愛の定義の「愛」と「自己中心」を入れ換えて、定義の部分を逆にすればほとんどがぴったりとするでしょう。これまで考えてきたことを盛りこみながら、少し変形してやってみましょう。「自己中心は忍耐強くない。自己中心は情け深くない。自己中心は人の幸福をねたむ。自己中心は自分が少しでもすぐれていると自慢し、高ぶる。自己中心は目上の人にも目下の人にも家族にも失礼なことをする。自分の利益を第一に求めるので、いつでもいらいらしている。自己中心は自分が何か悪いことをされたり言われたりすると、すぐに恨みを抱く。不義を喜び、真実を喜ばない。他の人の失敗や欠点にすべてがまんがならず、他の人の言葉を信じようとしない。他の人が立派になることを望まず、そのために我慢してあげることができない。」


「愛」は与えることであり、その反対語である「自己中心」とは受けることです。愛の人は与えることをいつも考え、自己中心な人は受けることをいつでも考えているのです。たとえば結婚を考えてみてください。若い二人はおそらく受けることばかりを考えているのでしょう。この人と結婚すればどんな良いことがあるかを考えているでしょう。

愛し合う二人が結婚をしたとき、お互いに相手は100パーセントであるかもしれません。しかし総理大臣の支持率のように、その後だんだんと下がっていくのが普通です。100パーセントが80パーセントになり、やがて合格点の60パーセントを割り、50パーセント以下になるのは時間の問題です。

そのようにして夫や妻に対する支持率が次第に下がっていくのは、互いに受けようと思っているからです。相手は思っていたほどには、自分に与えてくれる人ではないことが分かってくるのです。そして失った部分を取り戻そうとして、相手を変えようとする努力と戦いが始まります。

解決は相手を変えることの中にはありません。そうするならば相手は激しく抵抗するからです。解決は自己中心ではなく、愛の中にだけあります。受けることではなく、与える愛の中にあります。このような愛は、もちろん私たちがもともと持っている愛ではありません。「愛は惜しみなく奪う」という言葉がありますが、私たちが生まれながら持っているのはそのような愛であるのです。キリストの愛は徹底的に与える愛です。キリストの人生は最初から終わりまで、与える人生です。時間も体も命も名誉も。そして着物も眠りも楽しみも。13章の愛の定義を「キリスト」に入れ換えて読んでみてください。そしてもう一度、今度は自分の名前を「愛」に置き換えて読んでみてください。