13.すべてを忍び、信じ、望み、耐える人

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える

最後の四つは、すべてに「すべて」がついています。「すべて」という言葉は、寄り好みを排除するという意味です。事柄、対象、時、都合によって愛することを止めるのではありません。忍ぶ限度を定めてもいけません。

私たちはみなスポーツにすぐれているわけではありません。ノーベル賞をもらえるような学問の天才はごくわずかしかいません。しかし私たちはみな自己弁護の天才であるのです。他の人の失敗には我慢がならなくても、同じことを自分がした場合は舌をペロッと出してそれで終わり。遅刻すれば「電車が遅れた。」「ついうっかりして」、「手がすべって」、「忙しかったもので」、「最近は物忘れが多くなって」等など、自分を弁護する言葉が流暢に口からあふれ出てきます。

「すべてを忍ぶ」とは、そのような自己弁護を他の人の失敗のときにもしてあげるということです。「忍ぶ」は「覆う」の意味も含まれています。他の人の失敗や欠点を弁護して、非難から覆ってあげるということです。

「すべてを信じる」とは明らかなウソをも信じて、誰にでもだまされるのが良いということではありません。振り込み詐欺にはひっかからないようにしなければなりません。宗教改革者カルヴァンは、この個所を「判断に際しての純粋な心と人間味」と解説しています。「もうしちゃいかんぞ」と先生にしかられた子供が、まじめに「うん」と答えるなら、その言葉を信じるべきであるという意味です。

イギリスの高校でサッカーをしているときに、だれかがボールを持って走ったことからラグビーというスポーツが始まりました。その高校がラグビー校であり、オックスフォード大学やケンブリッジ大学に最も多くの学生を送りこむ名門校としても有名です。しかしそのラグビー校も、昔は暴力学校として知られていた学校であったらしいのです。校長のアーノルドは、学生を信じることによって、暴力高校をイギリス一番の名門校に変えたと伝えられています。

子供たちは「もうしない」と言ってもまたやるかもしれません。でもその場しのぎのうそではないならば、それでも子供たちを信じてやるべきです。信頼されたときそれを裏切ってはならないという思いを取り去るべきではありません。「どうせまたやるんだろう」と思うより、「すべてを望み」「すべてに耐える」方がはるかにすぐれているのです。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分を気とつけなさい」(ガラテヤの信徒への手紙 6:1)。