10.いらだたない人

教会の一致とそれを妨げるものについてパウロは語っています。すぐれた賜物や才能がいっぱいあっても、それを結び合わせる愛がなければ、かえって教会はバラバラになってしまいます。

ハンドル、タイヤ、エンジン、それだけでは単なる邪魔な物体にすぎません。自動車の部品だけがあっても、それを組み立てる者がいなければ何の役にも立ちません。賜物や能力もそれを結び合わせる愛がなければ、かえってねたみや高慢の原因となり、教会をバラバラにするエネルギーとなってしまいます。

教会に限らず、あらゆる人間関係をここに記されている愛の定義によって調べてみることは有益です。たとえば夫婦関係です。なぜ互いに愛し合ったはずの男女の愛が冷めてしまうのでしょうか。理由はあまりにも簡単です。愛とはここに記されているようなものであるからです。ハリウッド映画やテレビドラマは別の愛の定義を人々に広めてしまいました。それが愛であると思って結婚した二人には、どこかで愛の定義を修正しないかぎり、不幸な結果が待っているのです。

聖書の言う愛とは単なる感情の盛り上がりではありません。全くそうではありません。いやむしろその反対であるとさえ言った方が正しいかもしれません。教会のパソコンにホームページの応答メールが送られてくることがたまにありますが、クリスチャンのガールフレンドに肉体関係を断られたという、クリスチャンに対する抗議のような不満がいくつかありました。彼らは自分の欲求を満足させるために急いでいるのです。大急ぎです。聖書の愛の定義と比べてみてください。愛は長く待つのです。

さて今日は「いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」という、愛の定義の後半を考えましょう。


今日の第一は「いらだたない」、新改訳聖書は「怒らない」。直前の「自分の利益を求めない」と密接な関係があります。すでにお話ししたように、クリスチャンは自分の利益を一切求めてはならないという意味ではありません。「自分の利益を求めるのはクリスチャンらしくない」などと考える必要はありません。

パウロが考えているのは、自分の利益や名誉にあまりにも集中している状態です。だからいらだつのです。お母さんにとっては子供の利益や名誉は、自分の利益であり自分の名誉です。日本のお母さんが最もよく使う言葉の第一位は「勉強しなさい」、第二位は「早くしなさい」だそうです。お母さんが希望したような成績をとってこないといらだち、お母さんの思うような早さで子供が歩かないといらだちます。

新改訳聖書では「怒らない」。クリスチャンは絶対に怒ってはならない、という意味ではありません。私たちは不正に対しては怒らなければなりません。

しかし人が怒るのは普通そうではありません。自分の思いどおりにならないときに怒り、いらいらするのです。本当のことを言われるから怒るのです。