1.愛を学習する人

愛は忍耐強い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 コリントの信徒への手紙一 13:4~7


あなたや私がある悪い行動をしたなら、普通は突然そうしたのではありません。その人の心の中にある傾向があり、水が高いところから低い所へ流れていくように、妨げられない限りその傾向に従って行動しているだけです。川が曲がりくねりながらも最後は海に流れ込むように、人も紆余曲折しながらやはり一つの方向に進んでいくのです。同様に正しい生き方も突然できるのではありません。その人の人格の根底を流れる性質が、機会を捕えて正しい行動となって表れるのです。

しかし罪の生活と正しい生き方とは、根本的に異なっている部分が一つあります。罪の生活は、「水が高いところから低い所へ流れていくように」、放っておくと自然にそうなっていきます。罪深い生き方が自然のものであるのに対して、正しい生き方はそうではありません。水が低い所から高い所に流れるためには、何か外からの力が加わらなければなりません。慣性の法則によれば、運動している物体は運動し続け、静止している物体は静止し続けようとします。そのようにして、人は罪の傾向の中に留まろうとするのです

罪を殺人、誘拐、強盗などの凶悪犯罪に限定するべきではありません。うそ、ギャンブル、酔っ払い、怒り、ねたみをも含めるべきであると申しあげているではありません。善を行わないという消極的な罪もあります。しかしそれだけでもまだ十分ではありません。善と悪に対する心の基本的な方向こそが罪であるからです。あれこれやの悪い行為よりも、悪の方に流れていく性質が問題にされなければならないのです。

悪に打ち勝ちながら、私たちは善へ向って進まなければなりません。汗をかいて努力をしなければならないのは、坂を下るときてはなく坂を上るときです。悪いことをまたしてしまったということはあっても、いつの間にか良いことをしていたということはありません。私たちは意識して、決意して、努力して正しい人生を歩まなければならないのです。

「愛は学習するものである」と言われます。聖書で「愛しなさい」というとき、その愛は人間に自然に備わっている親子の愛や恋人同士の愛のことではありません。聖書には放っておいても自然にできる命令は一つもありません。しかし妻を愛しなさいという命令は、くりかえしなされているのです。放っておくと夫は妻をだんだんと愛さなくなっていくからです。

愛はまた抽象的なものではありません。ドストエフスキーの長編小説「カラマーゾフの兄弟」に、自分では愛をいっぱいもっていると思っている婦人が登場します。そしてこのように言うのです。「私は世界を愛しています。そのために命を投げ出すことができます。でも隣りの子供の泣き声に我慢がならないのです。」

愛は抽象的なものではありません。コリントの信徒への手紙第一13章には、愛に関して、七つの否定と、七つの肯定があります。愛はどういうものでないのか、愛はどういうものであるのか、私たちはその両面を具体的に学ばなければならないのです。