変化を受け入れることから始まる

神の側から見れば再創造、人間の側から見れば成熟。これこそが、そしてこれだけが、人間としての本質的な違いです。それ以外の違いは、生まれたときがみな同じであるように、また死が奪い去ったあとはみな同じであるように、大した違いではありません。神はすべてのクリスチャンの再創造と成熟を願っておられます。しかしすべてのクリスチャンが、成熟していくわけではありません。再創造が起こるためには、ヨブの場合がそうであったようにいくつかの条件があるからです。覚悟をしなければならないのは、年をとると特に困難になる条件ばかりであるということです。ですから若いうちから始めることが重要であるのです。

第一の条件は、自分に近付いて来るものを拒否しないことです。変化を受け入れる心構えと言い換えても同じです。ところが良い変化は受け入れるのが簡単ですが、悪いと思える変化は受け入れるのが困難です。ヨブはそれをも受け入れて、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言うことができたのです。

年寄りは変化を受け入れることが一般に困難であると言われます。しかし社会との関係や肉体に最も大きな変化が生じるのがこの時期です。仕事、人間関係など、今まであったものがなくなります。今までに無かったものが現れてきます。80歳をすぎても現役の落語家が、「年をとると毎日がフレッシュですよ」と言っているのをラジオで聞きました。「昨日は何ともなかったのに、今朝はあちらが痛いこちらが痛い。毎日が新しい経験です」と言うのです。受け入れるとは必ずしも喜んで受け入れるということではありません。苦しいことでも何でも、教会の中では一応「ハレルヤ」と言う偽善的なクリスチャンになれというのではもりません。ヨブのように苦しみながら、いやいや受け入れることも含まれるのです。

第二の条件は第一の条件と同じであり、少し言い換えただけです。つまり自分と過去を結びつけないことです。お年寄りは昔のことを語りたがるのが普通です。お年寄りの聖書の勉強会をしたことがありましたが、最後は戦時中の話で盛り上がりました。もちろん昔の話をしてはいけないということはありませんが、過去に生きてはなりません。「主は与え、主は奪う」というヨブの言葉は「過去に生きない」という意味です。ヨブは自分のことを、少し前まで羊7000匹、らくだ3000頭、牛500頭、雌ロバ500頭を所有していた男と言っていません。現在の自分を見てその状況を受け入れているのです。

第三の条件は、第二の条件と同じで、別の角度から見たものです。第一と第二の条件から引き出されることであり、ヨブの言葉の裏に隠された意味です。いつでもが新しい出発であり再創造の機会であると期待することです。過去に縛られる者は新しい出発はできません。

再創造とは若返ることではありません。若さのために隠されていた、人間としての本当の価値を見つけることです。自分がなろうと思っている希望の姿を目指すのではなく、神が私のうちに形作ろうとしておられる本当の自分の姿を見ることです。人間としての最高の祝福は、世界に一つしかない神の形を自分の中に見ることです。