人の本当の違いは何か

それでは本当の違いはどこにあるのでしょう。それは人間としての内面の成長であり、一言で「成熟」と表現される言葉です。「老化」も「成熟」も時間と関係のある言葉です。時間が経過しなければ、「老化」も「成熟」も起こりません。しかし両者は月とすっぽんの違いがあります。肉体の老化はだれも避けることができませんが、私たちの精神は必ずしも肉体の老化にお付き合いする必要はありません。いやむしろ、時間の経過とともに私たちの精神は成長することができるのです。人生の時間をそのように用いないなら、高い支払をしながら帝国ホテルのフル・コースのディナーを見るだけで帰ってくるようなものです。

最高のごちそうは、人間として「成熟」することです。それは単に人生経験が豊かであるとか、処世術を心得ているというようなことではなく、様々なことを通して実現される神の再創造の働きを経験することです。クリスチャンはキリストの十字架を信じて、新しい命に生まれ変わりました。そして霊の赤ちゃんから出発したのです。人間の親は赤ちゃんが大きく成長することを願います。そのように、天の父も私たちが成長していくことを切に願っておられます。そしてあらゆる機会を用いて私たちを成長させてくださるのです。

ところがそのような成熟が、すべてのクリスチャンに起こるわけではないことも私たちはよく知っています。同じ教会に来ていても、同じ牧師から同じ説教を聞いていても、すべてのクリスチャンが同じように成長するわけではないのはどうしてでしょうか。

人が成熟するのを妨害するものがたくさんあるからです。そしてそのほとんどすべてが外側ではなく、私たちの内側にあるのです。ヨブが受けた最高度の苦痛も、ヨブが成熟することを妨げることがありませんでした。ヨブ記におけるヨブの最後の言葉は、「あなたのことは耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」ヨブが最後に到達した場所から見ると、かつての神知識は単に耳で聞いている程度にすぎないという告白です。ヨブは自分を知り、神を知りました。それが神の再創造であり成熟であるのです。

キリストの十字架によって霊的に新しく生まれたクリスチャンは、その後も神の創造の働きに与ります。それが聖化であり成熟です。一瞬一瞬が新たに造りかえられる再創造のチャンスです。うれしいことも、悲しいことも、死にたいと思うような苦しい経験も、すべてが神の再創造の機会として用いられます。そしてその最も極端な実例がヨブであるのです。