変化を受け入れる

「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙 8:28)。多くのクリスチャンが愛する聖書の言葉です。「万事」とはすべてのことという意味であり、老をとることもその中に含まれているはずです。しかし年をとることが私たちの益となるためには条件があり、年をとることが自動的にすべての老人に益になっているわけではありません。その条件はすでにお話ししました。すなわち受け入れることです。それが「何事にも時があり、天の下にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、、、。」という箴言の最後の言葉のもう一つの意味です。変化を受け入れることです。しかしお年寄りにとって変化が最も苦手であると言われるのに、そのような条件は厳し過ぎるのではないでしょうか。

確かにそうだと思います。求められている変化とは、スマートフォンやiPadを自由自在に使いこなすことではありません。そうではなく、自分の内にある変化と、自分の外にある変化を受け入れていくことです。その中には生まれることも死ぬことも含まれます。

若者とはこれから、入学、就職、結婚など様々なことを初めて経験する人たちです。それぞれ若者にとっては大きな出来事であると言うことができるでしょう。しかし周りの人にはそう見えなくても、高齢者の経験することは、実はもっと大きなことばかりであるのです。たとえば前述の退職がそうです。自分の体に起こってくる様々な深刻な変化、痛み、不自由、病気。友人や知り合いの死。配偶者の死。そして自分自身の死という、人生で最も大きな出来事のもう一つが控えています。別の一つは言うまでもなく生まれることです。箴言の著者はですから、その他の様々の時の前に、「生まれるとき、死ぬとき」という全体的なことを最初にもってきたのだと思います。途中のことはこの二つに比べるならたいしたことではありません。

今まで自分でこうしてああして、と思ってやってきた。しかしそうでないことが老年には分かるのです。「する自分」ではなく、死を含めて「なる自分」であることが分かるのです。死んだらそれこそ自分では何もできません。何も選ぶことはできません。


なじんだ習慣や環境は、物事が永続するという幻を与えるものです。しかしそれは幻にすぎません。それは頼るべきものではありません。物事は必ず変化するからです。もし私たちが変化を受け入れなければ、過去に生きることになるでしょう。本当はそうではなかったのに、過去がバラ色に見えるからです。「昔は良かった」、「わしの若いころは」「近頃の若いもんは」、お年寄りの三大言葉です。

悲しみや苦しみは変化を拒否することから始まります。そして悲しみと苦しみは変化を受け入れることで終わるのです。「あなたを殺すものでなければ、あなたを強くするもの」という言葉があります。私は高齢者の初心者であり高齢者に入門したばかりです。これから私は自分自身が言葉で言っていることを、実際の生活の中で経験していくことになります。常に変化する世界の中で、今していることが出来なくなるときがある、と認めることが出発点です。それを受け入れことができるのは、絶対に変化することのない神の愛を信じているからです。