子供っぽさを克服するために ―成長した人とは―

成長するとは、消極的に言えば子供でなくなっていくことです。子供の持っているものはみな悪いものばかりではなく、大人が見習うべき良い面も子供たちはもっているものです。キリストも、「子供のようにならなければ・・・・」と言われました。ここではそのような良い意味での子供ではありません。うそや泥棒は、子供であろうが大人であろうが悪いものです。そのような事柄をいま考えようとしているのではありません。子供であれば当然であっても、大人であれば問題があるような何かを克服していくことが大人に成長することであり、いま考えようとしているのはそのような事柄です。


1.自分の視点からだけ

子供ばかりが集まっているところではすぐけんかが始まります。子供たちはキャッキャッといま仲良く遊んでいるかと思うと、次の瞬間ワッとだれかが泣き出してすぐに遊びが中断してしまいます。子供は視野が狭く自分から見たものの見方しかできないのが普通です。「おもちゃを買ってほしい」とデパートの床にころがって泣き叫んだら、お母さんは恥ずかしいだろうなとは考えないのです。成熟するということは、多くの視点を持ち他の人の立場になって考えることができるようになることです。

このような子供の性質が年寄ったものが「頑固」です。頑固な人も自分の視点からだけ物事を判断し、譲ろうとしないのです。すべての紛争の根本的な原因は「わたしは正しい」という思いです。しかし多くの場合、そのような正しさは「部分的に正しい」に過ぎないのです。坂の下の人はこれは上り坂だと言い、坂の上の人はこれは下り坂だと言うのです。


2.月光仮面

子供たちは英雄が好きです。そしてウルトラマンや仮面ライダー(少し古い)のジェスチャーをまねたりします。地球の危機を次々と解決していく様が、子供たちにはかっこよくみえるからです。しかし正義の味方を演じる大人の月光仮面は、しばしば平和な組織やグループに危機をもたらします。問題を解決することよりも自分のかっこよさを気にしているからです。


3.感情の支配

「わたしはキリンさんが好き。でもゾウさんはもっと好き」と女の子が電話で話すコマーシャルが大ヒットしたことがあります。この場合、キリンやゾウには嫌われたり好かれたりする何の責任もないのは明らかです。私たちも事柄が問題であるのか、人が問題であるのかが混乱している場合があります。

「ぼうず憎けりゃ袈裟まで憎い」方式で、私たちは何としばしば不公平な判断をしていることでしょうか。ぼうずの問題と、キリンさんの問題は本質的に同じです。人はみな好みも違えば、好きな人のタイプも違っているものです。それはそれでよいのですが、人の問題と事柄の問題を区別することが大切です。好きな人の言ったことはいつでも好きで、嫌いな人の言ったことはいつでも嫌いというのではいけません。


4.態度による表明

小さな子供は、態度によって自分の気持ちを表すのが普通です。泣いたりわめいたりして悲しみや不満を伝えようとします。このような子供の性質は、大人になった多くの人の心にも残っています。私たち日本人は、ある関係の中で子供のようなし方で気持ちを表す傾向があります。ある関係とは内輪の関係であり、相手の人がそのような関係にあると認識したとき、子供のように態度で気持ちを表すのです。最も代表的な内輪の例は親子関係であり、次は夫婦関係です。そのような関係では、ふくれて物を言わなくなったり、不親切によって不満足を表したり、ドアをバタンと閉めることによって怒っていることを示そうとします。職場ではどんな無礼な客に対しても冷静で丁重に対応できる人も、家の中でも同じようにふるまうとは限りません。そこは内であり甘えの通じる場所であり、言わなくても分かってほしい、いや分かるべきだという甘えがあるからです。

私たちはもっと言葉を用いるべきです。「幸せなら態度で示そうよ」という歌がはやりました。しかし怒りや不満足といったマイナスの感情を表すときには、態度ではなく大人らしく言葉によって表さなければなりません。


5.傷つきやすい

子供はすぐに泣きます。傷つきやすいのです。日本語としての「センシティブ」は多少のロマンチックな響きをともないそれほど悪いニュアンスを含んでいません。「鈍感」と言われる方が腹を立てるでしょう。しかし英語の「センシティブ」は日本語と共通の意味の他、「病気にかかりやすい」「機嫌をそこねやすい」「皮膚病になりやすい」「影響を受けやすい」といった場合にも用いられ、どちらかというとマイナスのニュアンスをもった言葉であるようです。外国ではよほど注意してこの言葉を用いるべきです。

センシティブな人は外からの刺激に敏感に反応します。センシティブの原因は自分の内側にあり、自己評価の高さです。現代のカウンセラーが、低いセルフイメージとか自己像の低さと表現しているものと同じです。高いと低いでは反対のようですが、根本にあるのは高さであると私は思います。自分はもっと高く評価されるべきであると思っているのに、周りの人は自分を低く評価するときに、センシティブな心は傷ついてしまうからです。自分にあまりにも大きな関心があるのです。

傷つきやすい人ばかりの組織やグループはもう何もできません。何も言えません。人の機嫌をとることにほとんどの時間がとられてしまいます。「心の貧しい人々は幸いである」とキリストは言われました。「悲しんでいる人々は幸いである」とも言われました。そのような人々は自分の罪深さを知り、自分の罪深さを悲しんでいるのです。何かを人から言われたことを悲しんでいるのではありません。

グループの中に傷つきやすい人がいることは避けられません。そのような人々を受け入れなければなりません。「お前は要らない」と言ってはならないのです。しかし弱い人々、不満のある人々、機嫌をそこねやすい人々がグループの方針や雰囲気を支配してはなりません。それは克服されるべき弱さであり、そのような弱さに克服されてはならないのです。私たちの体にはいつもどこかで問題が起こっています。細菌がのどから侵入しのどが痛みますが、ほとんどの場合は大事にいたらず元通り正常になります。しかし下手をすると39度以上の高熱で入院しなければなりません。どんな組織やグループ、そしてキリストの体である教会にもいつも問題があります。しかし、炎症を起こした部分が全身を衰弱させてはならないのです。