次の曲り角

老人は過去に生きることによって、現在を無意味にすごしてしまいます。「あの時はよかった」と。でも多くの場合、そのころ本当によかったわけではなく、現在に対する不満をあらわしているにすぎないのです。

子供たちは未来に大きな希望をもっているでしょう。「歌手になりたい」「イチロー選手のようになりたい」と。でも、そのような夢が実現していくのはほんの一握りで、みんなごく普通の人になっていくのです。

私たちの多くは、次の曲がり角を曲がったら幸福があると思いつつ、いつの間にか最後の曲がり角まで来てしまうのでしょう。「大学に合格したら」「恋人ができたら」「結婚できたら」「子供が合格したら」「子育てが終わったら」「マンションが買えたら」「ローンが払い終わったら」「退職金が出たら」「病気がなおったら」「死ぬときは、嫁の世話にならずにポックリといけたら」と。でもその時が来ても、また次の曲がり角に幸福が待っているように思えてならないことでしょう。現在に満足することは何と難しいのでしょうか。

砂漠のオアシスや夏の高速道路の逃げ水のように、あるはずのところにきても、水はもう少し先にあるのです。「十分とは今よりもう少し持つことだ」と言ったのは、自宅にゴルフ場を持っていたアメリカの大富豪ロックフェラーです(ネットのゴルフ練習場ではなく本物のコース)。人はいくら持っても、満足することがありません。普通の人間である私たちは、そこまで持ったことがないため、もっとあれば幸せになれると思うのです。カキのお好み焼きにあたったとき、この激しい腹痛がおさまったらもう何もいらないと思いました。「神様、それだけでいいです」と祈ったかもしれません。でもいざ治ってみると、もうそんなことはケロっと忘れて、あれがほしい、これもほしいと考えているのです。


それではどうしたら、いま幸福になれるのでしょうか。第一には、過去や未来に幸福を探そうとしないことです。「昔は良かった」「次の曲がり角の向こうには、、、」と言って現在から逃避しないのです。

第二は、本当の幸福はどこから来るのかを知ることです。外からか、内からか。「鬼はそと、福はうち」と言って豆まきをするのは、幸福は外から来ると考えているからです。それも確かにあるでしょう。しかしたとえどんなに良い境遇に生まれても、ゴルフ・コースを手に入れても満足するとは限らないとしたら、幸福は外からだけ来るとは断定できません。反対に多くの苦労や重い病気を抱えた人々が、必ずしも最も不幸な人であるとは限らないのです。外から来る幸福はむしろ「幸運」(ラッキー)と呼ぶべきで、当たり外れがあるものです。もしそれだけで人生が決まるとするなら、幸福は運まかせ。不幸な人が大量に出ることになります。そうです、ラッキーな人はいつも少数者であるからです。

第三は、満足することより満足する心を求めるべきです。物やお金が十分にないために心が満足しないのではなく、満足しない心があるために満足できないからです。

第四は、過去と未来の問題を解決しておくことです。「良心さんは大声の持ち主だ」と言った人があります。良心を完全に黙らせることはできないのです。過去の失敗や罪は、現在に重くのしかかっています。いまどんなに楽しくやっていても、良心の呵責から完全に解放されなければ現在を本当に楽しむことはできません。また将来に不安があれば現在を楽しむことはできないでしょう。ナイアガラの滝に向かう遊覧船の中で、途中の美しい景色を楽しむことができるのは、事実を何も知らない乗客だけです。人間にとって最も重要な将来の問題は、死んだ後の私たちの魂の行き先です。あるかないか分からない火災のために保険をかけながら、必ずおとずれる死に対して何の準備もしなくて良いのでしょうか。

聖書からあなたへの問いかけです。聖書には、以上すべての問題に対する答えが記されています。


聖書の言葉

「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」 マタイ福音書 5:4

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」 マタイ福音書 6:19~20

ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。 詩編 51:9