逆転の逆転 キリスト教の救い

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」 創世記 3:15


自分と自分の間に神が敵意を置かれるとき、驚くべきことが起こります。そのときはじめて本当の自分が見え、私たちをがんじがらめに縛っている、自我から解放されるようになるのです。これが聖書の教える救いの中心的な部分です。罪と自我からの解放と言い換えても同じです。

日本人は一般に、礼拝の対象が何であるのか、何からの救いなのか、といった宗教の内容よりも、どのように拝むのかという宗教の態度を重んじる傾向があります。神社や寺で手を合わせ、誰に対して祈っているのかははっきりしていません。滝に打たれ山にこもり苦しい修行を行う、無我の境地で瞑想する、お百度参りをする、等など主にその熱心さが評価されます。そのような修行や瞑想も自分を変えるのにある程度は役立つかも知れません。しかし人間の努力や修行には限界があります。原発事故を起こした張本人である東電自身の内部調査では、正確な事故究明が不可能であるように、人間の努力も修行も、そこから解放されようとしている自我がしっかり支配しているからです。

大阪の式場で行われる友人の結婚式に出席するため、東京から新幹線に乗って京都で下車したらどうなるでしょう。「90パーセントは目的を果たした」と言うことができるでしょうか。もちろんそうではありません。友人の結婚式に出席するという最終目的からは、何もしなかったのと同じと言わなければなりません。途中で投げ出して中途半端で終わってもよいことは多くあるでしょう。しかし魂の救いという、人間にとって最も重要なことについては、「努力することが大切なんだ」と言うことはできません。聖書に示されたキリストとキリストの十字架だけが、人間の魂を罪と自我の支配から解放するのです。


中間はない

もちろんクリスチャンになれば、完全に自我から解放された完全に自由な人間になるのではありません。しかしこれまでなかった自我との戦いが始まり、人生の方向が変わります。最初はキリストを信じたクリスチャンも、他の人とほとんど違うようには見えないかもしれません。しかし方向が違うということ以上に、大きな差はないと言わなければなりません。反対の方角に向かう二人の距離は、最初は少しに見えるかもしれませんが、二人がまったくかけ離れた所にいるときが来るのは確実であるからです。人生のできるだけ早いときに、キリストとキリストの十字架に出会い、自我から解放される旅に出発するのが賢明です。しかしあなたがたとえ人生の終点に近づきつつある年齢であるとしても、今日と言う日があなたにとって最も若い日であり、やはり自我との旅立ちには最良の日であることには変わりはありません。

逆転満塁ホームランは野球では最も感動的な場面です。しかしその裏には、逆転で負けたチームもあるのです。人生にはボクシングや柔道のような判定勝ちはありません。全体の総合得点で判定されるのではなく、野球やすもうのように途中はどうであろうと、最終的に最後に勝ったか負けたかだけが重要であるのです。生きているうちは、自我から解放され自由人となるのか、それとも自我と言う牢獄に閉じ込められているのか、どちらか一つです。死んでからは、天国に入れるのか、入れないのか、どちらか一つ、中間はありません。

昔の戦争で最も重要なことは何であったでしょう。どの王についているか、それだけです。どんなに多くの敵を倒した勇敢な兵士であっても、敗北した王の軍隊に属しているなら、その兵士も敗北したのです。逆に弱い兵士であっても、勝利した王についている兵士は勝利を分かち合うことができるのです。ですから私たちの人生の王がだれであるのか、ということほど重要な問題は他にありません。誰について行っているのか、何に従っているのか。神のきよく正しい律法でしょうか、それとも欲望や自我でしょうか。

誤解をしてはなりません。欲望や感情そのものが悪いのではありません。食欲、性欲、生きる欲望、知識を増し加える欲望、あらゆる欲望はそれ自体は良いものです。神は私たちに肉体と欲望と感情をセットで与えてくださったからです。しかし罪が人の心に入ったときに逆転が起こり、欲望や感情がトップの座に座り、私という人格の全体を支配するようになってしまいました。

逆転は様々なところで混乱を引き起こします。私たちが用いるように与えられたものが、逆に私たちを支配するようになります。たとえば金や物は私たちが生きていく上で必要であるのですが、金や物がいとも簡単に多くの人々の人生を支配するようになります。私たちが治めるべき感情が王になり、怒りや恨みが全人生を支配することもあります。娯楽が学習や労働の時間を妨げます。聖書には金や性や娯楽が悪いという教えはありません。しかし金を愛し、金に支配される生き方は否定されています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」(マタイ福音書 6:19)。


逆転

逆転した世界に住み慣れると、本人にはそれが当たり前になっていき、そうでない世界ではむしろ息苦しくなります。「ニモ」というディズニーのアニメに、子供の魚のニモが、空中に飛び出し、別の水槽に移動しようとする場面があります。私たちが水にもぐる前に息をいっぱい吸い込むように、ニモは空気中に飛び出す前に水中で同じ動作をするのです。

神の律法によって生きるきよい生き方は、自我と罪の世界に住みなれた魂には窒息するような息苦しい世界であり、そのため息を止めてできるだけ早くそこから脱出しようとします。それが伝道が難しい最大の理由であると私は思っています。

言いかえれば、伝道で最も重要なのは、教会には実は本当の自由があると人々に知らせることであると思います。これはいけない、あれはいけない、とがんじがらめに人を縛るのではなく、自我にがんじがらめに縛られている私たちの魂を解放するのが、教会のメッセージであることを知らせるのです。

他の人の逆転した生き方ならまだよく見えているでしょう。たとえば、幼稚園から我が子の東大入学を目指す教育ママや教育パパ。高級住宅地として知られる芦屋市のある幼稚園の様子を紹介するテレビ番組を思い出します。「立身出世」「四苦八苦」「言語道断」などの四文字熟語の前半分を先生が読むと、生徒はすばやく後の半分を見事に言うことができるのです。おそらく番組の制作者は批判的に番組を製作したと思われますが、放送の後の反響は意外なものでした。番組では幼稚園の名前は伏せられていたため、「それはどこの幼稚園ですか。うちの子も通わせたいので」という電話の問合せが放送局に殺到したそうです。

多くの人はそのようなことを冷静に判断できるでしょう。しかしそれで私は大丈夫と安心することはできません。別のことになると、私たちは完全に自由であるとは限らないからです。自分自身のことはさておき、牧師仲間でもクリスチャン仲間であっても、なぜこの人は変わらないのだろうと思うことがあります。もちろん何も変わらないわけではありませんが、この人はここだけは変わらなければ、と思う点ではまず変わらないのです。前に会ったときと、全く同じであるのです。そしてその次に会うときも、同じであるのです。最大の理由は、本当は変わらなければならない部分に関して本人はこれでよいと思っているからだと思います。そこを変えることはとても苦しいからであり、最もしたくないことであるのです。


逆転の逆転

逆転した世界に安住しようとする人間の魂の傾向は、大型台風よりも強力です。上下逆さまになったデジカメの写真を反転すれば正常な状態になります。ワンクリックできる簡単な作業です。同じように逆転した世界を逆転すれば正常な状態になるのですが、そうするのは簡単な作業ではありません。そのためにはもっと強力な力が働かなければならないからです。人間の何行苦行も悟りを開く修行ではどうにもなりません。

しかし幸いなことに、そうすることは可能であるのです。ただしその方法は宇宙でたった一つだけしかない、と教えるのが聖書という書物です。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書 3:15~16)。私たちとは全く逆のことばかりを行われた、神の子イエス・キリストによってのみ逆転の逆転は可能であるのです。

人は今より少しでも高い地位に登ろうとしますが、神の子は私たちの救いのために、最も高い天から地に下り、乙女マリアより生まれて人となってくださいました。これ以上の左遷はありません。

それだけではありません。子供たちはディズニーランドなら喜んで行くというでしょう。しかし喜んで注射を打つために病院に行く子供はありません。本当は注射は子供のためであるのですが、だれが他の人の苦しみを進んで受けるために行くでしょうか。

私たちはありもしないことで非難されると、「なんで私が、、、」とすぐ不平を言うでしょう。しかしキリストは、私たちの罪を背負われたため、人々からあざけられ、鞭打たれ、つばを吐きかけられ、そして十字架につけられたのです。確かにキリストも十字架の上で「何で私が、、、」と言いました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書 27:46)と。しかしこれは不平のうめきではなく、神に完全に見放されるという最高の刑罰の証拠であるのです。神の愛に鈍感な私たちには、キリストが経験した苦しみをほとんど理解することはできません。しかし一瞬として神の愛を感じないで過ごしたこともない神の子にとって、神の助けと保護から完全に切り離されることほど大きな恐怖と絶望はありません。

来てみればそこは思ったほどいい所ではなかった、ということはあるでしょう。キリストにとって十字架をはじめ様々な苦しみは、それと同じではありません。神の子はわざわざ十字架の刑を受けるために、低く地上に来られたのです。キリストはある職務を果たすため、御自分の意志でそうしてくださったのです。


祭司の職務

それは祭司の職務です。祭司の職務は旧約聖書に詳しく記されています。旧約の祭司の主な仕事は、神に供え物やいけにえを献げることです。レビ記はとくにこのテーマを扱う書であり、イスラエルの人々は、牛、羊、山羊、鳥などのいけにえを持ってくるように命じられています。そして祭司は、人々のたずさえてきた動物のいけにえを焼いて神に献げます。脂肪はどうするの、腎臓と肝臓はどうするのと、事細かに犠牲の献げ方が記されています。

とくに重要な行為は、動物の犠牲の上に手を置くこと、祭壇に血を塗ること、そして血を注ぎかけることです。「奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」(レビ記 1:4)。動物のいけにえの上に手を置くことは、人の罪がいけにえに乗り移ったことを表す象徴的な行為です。つまり本来は罪をおかした本人が、神から罰を受けて血を流して死ななければならないのに、動物のいけにえが代わって血を流し神の罰を受けてくれるのです。そして神がその犠牲を受け入れてくださるとき、イスラエルの民の罪もゆるされるというのです。動物が身代わりになってくれたからであり、手を置くことは、そのような宗教的な真理を象徴的に表していました。

祭司であるキリストは、旧約の祭司と同じように、細かく記された犠牲の律法に忠実に従いました。旧約の祭司と違っているのは、いけにえの種類です。旧約の祭司は、動物の犠牲と血をたずさえて聖所に入りましたが、キリストは自分自身という犠牲と自分自身の血をたずさえて聖所に入られたのです。

旧約の祭司は、真の大祭司であるキリストを指し示していました。祭司がおこなう儀式と犠牲も、キリストとキリストの十字架を指し示していたのです。旧約では、祭司と犠牲は別々です。しかしキリストは祭司であり同時に犠牲の献げ物でもあり、旧約で別々であったものが新約では一つとなりました。旧約と新約のメッセージは同じであり、どちらも神の小羊、イエス・キリストの十字架の血による罪のゆるしとあがないです。ただそれを表現する方法と豊かさが異なっているだけです。


私と自我の間に

このようにしての私たちの救い主は、神と人との間にあった敵意を取り除いてくださいました。神の人に対する敵意は感情的なものではなく、法的な怒りです。つまり法に違反して罪を犯した者に適正な罰を与えなければならないという正義の怒りです。しかしキリストが私たちに代わって罪の罰を受けてくださったため、神の法的な怒りと法的な敵意は取り除かれ、私たちの罪がすべてゆるされるのです。

そのようにして神と人との間にあった敵意が取り除かれるとき、不思議なことが起こります。これまで完全に一つになっていた、私と自我の間に敵意が生まれ、私の中にある罪に対しても敵意を感じはじめるのです。クリスチャンになった喜びの次に訪れるのは失望です。しかしその失望は避けられないものであり、次の段階に進むための不可欠なステップです。

イギリスで聖書の次によく読まれた本と言われるジョン・バンヤンの「天路歴程」は、一人の男性がキリストを信じ天国にたどり着くまでの話を、すごろくのように絵画的に描いた古典です。その男性の名前もMrクリスチャン。「滅びの町」から脱出し、キリストを信じ罪の重荷を下したMrクリスチャンが最初に経験するのが「落胆の沼」です。沼の底には踏み石があり、最後には無事向こう岸から上がり天国への旅を続けるのですが、いっしょに「滅びの町」から出た「世俗氏」は、「これがあなたが約束して天国への道か。そんなら止めた」と言って、一番近い岸に這い上がり「滅びの町」にもどっていきます。

キリストを信じ救われた喜びは、遅かれ早かれ自分の罪深さに対する失望となってあらわれてきます。そしてやがてそれを乗り越え、今度はさらに力強く、天国への旅を続けるでしょう。