罪の悲しい結果 人間③

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムに言われた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 創世記 3:8~13


戦争やテロや犯罪は、悲しい結果をもたらすことは言うまでもありません。しかし悲しい結果をもたらすのは、新聞やニュースで騒がれるそのような特別な出来事だけではありません。大切な人間関係が、ほんのささいなことによってこわれてしまいます。してはならない小さな行為が、重大で悲しい結果に終わることがあります。最も身近な夫婦の関係でもそうではないでしょうか。と言っても、不倫や夫の暴力、アル中やギャンブル、のことを言おうとしているのではありません。

何か大きなことによってというより、日ごろの「ほんのささいなこと」、「ごく小さなこと」が積み重なって、悲しい結果に至る方がはるかに多いのではないでしょうか。夫をバカにするような言葉、妻に対する配慮のない不親切な言葉、やられたらやりかえしたいという思い、あやまることをしない頑固な性質、他の人を批判し自分は弁護する。人間関係を破壊する、「ささいなこと」「小さなこと」「いつものこと」を止めるのは難しいのです。

書店には役に立ちそうなタイトルの本がたくさん並んでいます。「人間関係を解決する方法」「対立する人とうまくやっていく方法」や、「男の子を育てる」「女の子を育てる」など育児教育の本も少なくありません。私にはそのほとんどに共通するある問題があるように思えるのです。それは出来る人間を想定して書かれているからです。たとえば、ある子育ての本には「叱らない」、ある夫婦関係の本には「イライラしない」と書かれていました。だれもがそうしたいと思っているのですが、問題はできないことではないでしょうか。溺れている人は、あと3メートル泳いで岸に着けば助かるかは分かっているのですが、問題は泳げないことであるのです。


小さな神

なぜ争いがおこるのでしょうか。そもそもの原因は、エデンの園を探せば見つかることを聖書は教えています。人が神から離れて、自我という小さな神になったからです。一人一人が小さな宇宙の小さな神になり、自分を中心に世界を回そうとします。世界は自分のためにあると思っています。しかし、みんなが同じように考えていますから、全員に都合の良いように世界が動くはずはありません。ある人に都合よく動かせば、他の大部分の人は気に入りません。こうして機嫌の悪い人や怒っている人が、感謝している人や喜んでいる人よりも多くなるのです。子供も同じです。ぶらんこやスベリ台も自分のためにあると思ってしまいます。赤ちゃんでさえ、泣き声によってお母さんを支配する方法を知っているのです。自分がしたいことが制限されたり、したくないことを強制されると、若者は「うるせー」と言って切れてしまいます。

神から人が離れたとき、一人一人が小さな神になり、小さな宇宙の中心になったのです。小宇宙は他の小宇宙と互いに衝突します。自分の宇宙を侵略する者は、エイリアンでありみんな敵ですから。そして聖書のリストにある、「敵意や争い、そねみ、怒り、不和、仲間争い、ねたみ」がおこります。それぞれの争いには、それぞれの直接の具体的な原因があるでしょう。おもちゃや砂場の取り合いであるかも知れません。自分より幸福な人に対するねたみであるかもしれません。国家間の領土問題であるかもしれません。みな小宇宙同士の衝突であり、罪に根本的な原因があるのです。


問題の根源

罪が何であるか、罪がどのようにして入ってきたかのかを知ることは、解決の方法を誤らないために必要です。マルクスは、「富が均等に配分されるなら、悪はなくなる」と考えました。しかし、マルクスの唱えるような共産主義社会は罪を解決しないことはすでに歴史によって証明されました。資本主義であれ共産主義であれ、社会体制は罪の問題を解決することはできませんでした。そしてその証拠は十分にあるのです。

全ての問題の根源は、人が神の言葉と神の愛から離れたことにある、というのが聖書の説明です。もしそうだとすれば、解決があるのです。神の言葉と神の愛に立ち返ることです。罪は外から入ってきたため、解決も外から与えられるのです。滝に打たれ、座禅を組んで、悟りを開く必要はありません。人間の内には罪に打ち勝つ原因も力もないからです。しかし神は、恵みによって、キリストの十字架によって、人は罪の支配から解放されるという約束をしてくださったのです。

もし、現世の悪や不幸が過去に原因があるなら、解決は簡単ではありません。過去は変えられないからです。家や墓の方角に原因があるのなら、家や墓を建て替えるには大きな費用がかかります。たとえ建て替えたとしても、また他にも何か悪いことが必ず起こってくるはずです。そのときは、また建て替えるのか、別の原因を探さなければなりません。もちろん生まれた年や月、そして手のとどかない星座を変更することはできません。


逆転

罪は様々な正しい関係を逆転させてしまいました。罪は様々な人間の働きを、最悪のものへと変える力です。飲むこと食べることなど、最も日常的な行動もその中に含まれます。飲むことや食べることは、もちろん罪ではありません。性的な欲望、食欲、などの肉体の欲望それ自体を罪であるか、レベルの低いものと考えるのが修道院主義です。間違ってはなりません、それ自体ではなく、欲望を悪用して飲み過ぎることが罪であるのです。

罪はそのように、正しい関係を逆転させる力です。美と調和を見苦しい不調和に変えてしまいます。手や足、口や耳はすばらしい働きをしますが、それを良い目的のためにも悪い目的のためにも用いることができます。性欲や食欲はそれ自体悪いものではありませんが、それぞれのいるべき場所をわきまえずに、あばれまって人間全体を支配して悲惨な結果をもたらしてしまいます。最善のものを、最悪に変えてしまう力、それこそが罪です。

知識も例外ではありません。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(コリントの信徒への手紙第一 1:19)。聖書は知恵や賢さを非難しているのではなく、人間の知恵や賢さのゆえに神を知ろうとしない高慢を警告しているのです。神から独立した知恵を求めるという、アダムの最初の罪と同じです。


部分的

罪の結果は人を部分的にしたことです。いつでも物事の半分、いや、ほんの一部分しか見えていないのです。たとえば「罪の結果」は、「罪の」結果であることが見えないため、人はその「結果」ばかりをなげく者となってしまいました。

受刑者の多くが、罪ではなく、罪の結果だけをなげいているのに似ています。刑務所を訪問して仏教やキリスト教の教えを説く教誨師の話によれば、受刑者のほとんどは悪かったと思っていると言うのです。そして言います。「あんなことをして悪かった、こんなことをして悪かった。しかし一番悪かったのは捕まったことだ。」

病気をいやすために最も重要なのは、痛みや熱といった症状を無くすることではなく、症状の原因となっている病気そのものを取り去ることです。しかし人は、罪という霊的な病気そのものではなく、その症状である人生の様々な苦しみや悲しみだけを嘆くようになりました。罪の結果は悲惨です。そして罪のもう一つの結果は、悲惨が罪の結果と思わなくなったことです。


責任転嫁

罪が人間関係に及ぼしたもう一つの結果は責任転嫁です。神は呼びかけ、人は応えました。人間だけが、神の呼びかけに対して応えるように造られたからです。人はいまでも、神の呼びかけに何らかの応答をしなければならないのです。牛や馬は神にさからうことを知りません。しかし、神の呼びかけに応えることもできません。人間だけが神の呼びかけに従順に応えることも、それを無視し意識的に反逆することもできるのです。アダムは応答しましたが、正しい応答ではありませんでした。いちじくの葉で体を覆い、他の人に責任をなすりつけることによって心を覆いました。罪の悲しい結果です。

「『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女にむかって言われました。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」神に対する人の最初の応答は、「責任転嫁」です。そして、人は今も同じようにしています。「電車が遅れたので遅刻しました」と言います。つまずいたら、「坂が悪い」と言います。坂がなければ「石が悪い」と言います。夫が悪い、妻が悪い。私が不幸なのは、あの人が悪いからこの人が悪いからだと思っています。

科学は驚異的に進歩しました。しかし、人間はアダム以来何も変わっていません。何も進歩していません。人は今でも、自分の裸をかくすことばかりを考えているのです。「あなたは、どこにいるのか」という神の声は、今でも私たちの心に聞こえてきます。そして今も、「女が悪いからです」、「蛇がだましたので」と弁解しているのです。自分の裸を隠すために、他人の罪をあばき、他人を裸にしようとさえするのです。あなたと神の関係は正しいでしょうか。最初の人が神との交わりを失ったときの印が、責任転嫁と自己弁護であったように、今も、同じ印によってあなたと神の関係を診断することができるでしょう。


サタンの支配

アダムとエバは、神の支配から解放されようとして、サタンの支配の下に入ることを選択しました。中立という立場はありません。そしてサタンの支配のもとにある者の最大の特徴は、サタンの支配の下にあることに気がつかないことです。サタンが完全に支配しているのですから。鎖につながれた奴隷は、主人のムチをおそれて主人に従うでしょう。しかし、もっと完全な支配は鎖がなくても逃げ出そうとも思わない奴隷です。

サタンの支配はさらに完璧です。パウロはサタンの完全な支配のもとにある人を、エフェソの信徒への手紙2章1~2節でこのように描いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」キリストの支配の下に来る前は「死んでいた」、と表現されていることに注目しなければなりません。死んでいる人の最大の特徴は、自分が死んでいることに気がつかないことです。それこそが死んでいる状態であり、霊的に死んでいる状態、すなわち神との交わりを失っている最も悲しい状態の特徴です。それは罪の結果です。


神との交わり

最大の罪の結果は、神との交わりを失ったことです。アダムとエバがエデンの園で罪をおかしたとき、二人は神から隠れました。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。」これまでは、神との交わりが最大の喜びであったのです。しかし今や神から隠れる者となりました。アダムが神の命令にそむき罪をおかしたからです。神は罪をおかしたアダムに呼びかけました。「どこにいるのか」(創世記 3:8)と。どこにいるのか場所が分からなかったからでも、アダムを責めるためでもありませんでした。悔い改める機会を与えて、もう一度、交わりを回復しようとしておられたのです。真昼のかんかん照りではなく、「その日、風の吹くころ」やってこられたのはそのためです。

アダムは、「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」ので木の間に隠れました。罪をおかして「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」、そして「二人はいちぢくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」のです。罪は体と心に隠す必要を生じさせ、このようにして夫婦の間にも隠し事がはじまりました。最大の悲劇は神から隠れようとしたことです。このようにして神の前にはすべてが裸であるのに、いちじくの葉で自分の恥をかくそうとする愚かな努力がはじまったのです。罪の悲しい結果です。


あなたは、どこにいるのか

「あなたは、どこにいるのか」という神の呼びかけは、私たちの良心を通して今も聞こえてきます。自己弁護を決めてかかっている心には聞きたくない声でしょう。無視することによって、耳をふさぐことによって、仕事や娯楽に熱中することによって、人は神の声が聞こえないふりをするでしょう。でも、良心の声をだまらせることはだれも絶対にできません。宇宙は神が創造されたので、良心の声が聞こえない場所など宇宙の中にはありません。

注目をしたいのは、6節の後半の淡々とした描写です。人類最大の罪、それゆえに今も人類が苦しみ悲しんでいる、その根源となる罪が「彼も食べた」の一言です。

新聞の一面で報道されるものだけが大事件ではありません。重大な事件は毎日、気軽におこっているのです。「一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」という具合です。朝起きてから今までどのようにすごしたかも、実は重大問題です。他の人に対して、妻に対して、夫に対して、自分に対して、行ったこと、言ったこと、考えたこと。それは、ささいなことではなく、重大なことであるのです。「言葉づかい」や「お行儀」の話ではありません。私たちの態度が「責任転嫁」や「自己弁護」ではなく「悔い改め」であるかどうかです。悔い改めこそが、神との関係と人との関係を回復するマスターキーです。