悪魔の巧妙さ 人間②

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 創世記 3:1~7


人は動物とは決定的に異なっていることをこれまで考えてきました。生物学的には、体の構造など、人間も他の動物と共通する部分は多くあることは言うまでもありません。しかし心の事柄になると、人間には他の動物とは決定的に異なる部分があることを、真・善・美という言葉ですでに説明してきました。

ヒョウのお母さんが、子供を犠牲的に守り育てる様子に心を動かされます。兄弟を守るためにワニも恐れず戦う動物の勇気に恥ずかしくなることさえあります。しかしそれが道徳的に正しいからという理由で判断して行動するということは動物たちにはありません。同様に道徳的に悪いことだからしないということもありません。

人間の場合は、自分が損をすると分かっていても、人間として正しいという理由で行動することもあり得ます。前回にお話しした、タイタニック号が沈没したしたときに、自分のジャケットを、小さな二人の子供の母親に与えた若い乗組員がその一例かも知れません。しかし人間はその反面、動物たちがしないような道徳的な悪を行うこともあります。遊ぶ金ほしさの強盗、恨みからの殺人、銃乱射事件、いじめ、等々、数え上げればきりがありません。そして戦争はその最も極端な例です。程度でも質でも、このような悪は動物の世界にはありません。ライオンは遊ぶ金ほしさに他の動物を殺すのではありません。そうするのは生きるために必要であるからであり、動物たちは欲や恨みからそうするのではありません。

つまり人間には、動物には絶対に見られない崇高な行動をする可能性と、動物にも劣る罪深い行動をとる可能性の両方があるのです。また同じ一人の人に中でも、ある時は立派な行動をし、ある時は不道徳な行動をすることがあるのです。


両極端

なぜ人間だけはそのような両極端の可能性があるのでしょうか。やはり人間だけが神のかたち(神に似る者)に造られたから、というのが聖書の説明です。神の息が吹き入れられたからとも説明しています。逆に言えば、人間の魂が一人の神によって造られたために、これほどまでに人間の心が似ているのです。たとえばタイタニック号の沈没のときに、自分のライフジャケットを婦人に与えた青年のストーリーに誰もが感動するのです。逆に「婦人と子供とお年寄りが優先」と叫ばれている中、ボートに割り込もうとする男性に威嚇射撃をしなければならなかった、というようなストーリーにはだれもが怒りと失望を感じるでしょう。その反対の反応をするような魂は果たしてあるのでしょうか。それはすでに見てきたように、人間の魂が偶然の産物ではなく、一人の神の同じ息がすべての人の心に入っているから、というのが聖書の説明です。偶然ならばもっと様々な反応をする魂があってもよいはずですから。

人間だけが動物には全くないすばらしい面と、動物にも劣る両面があるのか、という問いにもどらなければなりません。聖書の最初の部分にその答えがあります。前回は少しだけ触れたアダムとエバの物語を、今回はもう少し詳しく考えましょう。なぜ、どのように、いつ、罪が入って来たかの聖書の説明がこの中にあるからです。


アダムとエバ

聖書は神の存在を前提に書かれています。それだけでなく悪魔(サタン)の存在も同様に前提となっています。アダムとエバの物語には悪魔自身は姿を現しませんが、悪魔が「野の生き物のうちで、最も賢い」といわれるヘビを用いて、アダムとエバを誘惑するという設定になっています。悪魔は最高の詐欺師であり、その誘惑の巧妙さに注目することがポイントです。

へビの誘惑は三段構えです。最初の段階では、表面上はニュートラルな質問の形をとっています。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記 3:1)。イエスかノーで答えることのできる単純なクイズのような質問です。しかし、その中には毒がしかけられていましたが、エバは見破ることができませんでした。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という元の神の命令(同 2:16~17)と比べてみてください。

エバもまず質問に単純に答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。」しかし、「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」というエバの答の後半には、ヘビの誘惑にひっかかり始めているサインが少し表れています。神は「触れてもいけない」とは言われなかったからです。ヘビの質問には、「神はそんなきびしいことを言われたのか」というメッセージがしこまれており、毒が早くも回りはじめていたのです。

第二段階はもっとストレートです。蛇はこれまでに獲得したことを、さらに進展させます。最初はエバの心の裏口から入ろうとしましたが、今度は正面玄関から入ってきます。そして「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のようになることを神はご存じなのだ」と断言するのです。神はウソつきで、神は自分だけがいばっていたいのだ。皆が神のように賢くなることをねたんでいるのだ。神はウソつきで意地悪な方だ、と大胆にも解説をしたのです。

そして第三段階では、もはやヘビが積極的に誘惑する必要はありませんでした。もう一度、エバに木の実を見せるだけで十分であったのです。エバは自分が取って食べただけでなく、それを夫のアダムにも与えました。そして「彼も食べた」のです。


詐欺師

悪魔の誘惑の最大の特徴はやり方が巧妙であることです。悪魔は最高の詐欺師でありそれはアダムとエバの昔から現代に至るまで同じです。詐欺師がもっとも気を使うのは何でしょうか。ずいぶん前の話ですが、三島駅で新幹線から在来線に乗り換えるとき、赤っぽいビロードのジャケットを着たキザで詐欺師のような中年の男性とすれ違いました。しかし後で考えてみると、その男性は間違いなく詐欺師ではないと思います。本物の詐欺師が最も気を使うのは詐欺師に見えないことであるからです。教会にはウソをついて金をせびりに来る人が後を絶ちません。彼らに共通しているのは本当らしい話をして、金を恵んでもらうことです。私にはその努力がありありと見えるのですが、多少のお金を最近ではあげるようにしています。

悪魔は宇宙の中で最高の詐欺師ですから、簡単に詐欺師と見破られるようなことはしません。牙をはやして角を出して現れれば、だれでも警戒してしまいます。私たちが最も気づいていないところに悪魔の策略があると考えて、それが何かを探るべきです。クリスチャンの集まりである教会も時には混乱するのですが、その主な原因は何か罪深いことであるというより、ある人の正義感から出た行動である方がはるかに多かった、というのが私自身の経験です。


ダイヤルを回すのはだれか

アダムとエバの物語から罪への誘惑の特徴を考えてみましょう。振り込め詐欺に手口をあらかじめ知ることは、ひっかからないために最も重要な準備であるからです。そのために知らなければならない第一のポイントは、悪魔も人間を強制して罪を犯させることはできなかったということです。詐欺師はバッグに手を突っ込んで財布を盗むのではありません。バッグやたんすの引き出しから財布を出し、その中からお金を出すのはあくまでも本人であり、詐欺師はそうするように仕向けるのが仕事です。

最終的に罪を犯すのは本人であり、悪魔がそのように誘惑するのです。銀行強盗は銀行員に後ろからピストルをつきつけて、金庫のダイアルを回させることができるでしょう。銀行員は本心からではなく、強制され、おどかされてそうするのです。悪魔が人を誘惑するときは、悪魔は人の後ろにいるのではなく、前を歩いて人をついて来させて金庫のダイアルを回させるのです。

人は自由意志をもっているからです。罪が人類に入った後、人の心は悪に傾く傾向をもつようになりました。前にニンジンをぶら下げた馬が走るように、誘惑されて自分の方から悪に向かって歩いていきます。金を払ってでも、死刑の可能性がある場合でさえも、柵を乗り越えて、人は罪を犯すことができるのです。

動物はそうではありません。自分自身や子供を守るために他の動物や人を殺すことがあるでしょう。また生きるためにそうすることもあるでしょう。しかし動物を誘惑して他の動物を殺させるように仕向けることはできません。そこが人間と動物の違うところであり、動物には犯罪はありません。人は立派な行動ができる半面、動物にはないいまわしい罪をおかすことができるのです。


プライド

悪魔の誘惑の方法は、人間のプライドに働きかけることです。指圧をしてもらうとき、強い力で押されてもツボにはまっていないときは何も起こりませんが、ツボにはまったときには少しの力でも効いてしまいます。そのようにプライドという心のツボを操作されると、罪の誘惑は非常によく効くのです。ヘビもそこを利用して、まんまと成功しました。

神の言葉によってではなく、自分の判断に従って生きる。神の言葉に、「ハイハイ」と言って生きていく。そんな生きかたはつまらない。神がこれが正しいと決める権利があるなんてけしからん。色々あってもいいんだ、自分の頭で考えなきゃ。これがヘビの説明であり、アダムとエバが納得して受け入れた結論です。そして二人は、この結論をすぐ実行に移しました。木の実を食べたことは、単なるカキどろぼうではありません。神の基準を越えるという重大な決断であったのです。ここに人間が神の言葉ではなく、自分が正しい思うことに従って生きるようになった聖書の説明があります。

なぜ「盗んではならない」のでしょう。なぜ「殺してはならない」のでしょう。それは、人に危害を与え社会を混乱させるからです。この説明は誤りではありませんが、人間の法律が示す理由の限界を示しています。それでは、なぜウソをついてはならないのでしょう。なぜ、援助交際はいけないのでしょう。それによってだれにも迷惑をかけていないかも知れません。

罪の定義もエバによってつくりかえられました。エバは罪であるかどうかの理由を自分の損得の中に見いだして、「死んではいけないから」と言ったのです。自分に害を与えるものが悪であり、このときから罪と悪の定義が変えられ、今日もこの標準によって人は行動しているのです。


ように

悪魔の誘惑の言葉は全部ウソなのではなく、部分的に正しいのが特徴です。「それを食べると、神のように善悪を知るものとなる」と蛇は言ました。しかしもちろん人が神になったわけではありません。「神のようになった」だけです。すでに指摘したように、人は自分で善悪を判断したがる小さな神になったのです。

人は満足を求めて、様々なものを得ようとします。たとえば最も代表的なものは、お金です。お金があればどんなものでも買える「ように」思えるからです。確かにお金で買えるものはたくさんあるでしょう。金で買えるものは「虫が食ったり、さび付いたり、泥棒が盗んでいく」(マタイ福音書 6:19)ものばかりです。ナフタリンで予防しても、流行の虫にくわれて、もう着ることができません。死というだれにでも来る泥棒にすべてをもっていかれます。

しかし本当に価値のあるものの多くは金では買えないものばかりです。赤ちゃん、健康、愛、感謝、空気、平安、満足、等々。お金持ちが貧乏な人より空気がたくさん吸えるということはありません。

ある人は、権力や名声を手に入れて、神の「ように」なろうとします。そして、多くの国民の命が犠牲になってきたのです。小さな悪人は小さな悪を行い、大きな権力をもつ者は、世界を戦争に巻き込む最大の悪を行うのです。科学の発展は仕事や生活を便利にし、しかし一方で科学は大量破壊兵器と、世界を何回も破壊する核兵器を生み出したのです。

プラスの大きさはマイナスの大きさ比例しています。カギはそれを用いる人間です。しかし人間の心は、みな小さな神になり自分中心に世界を回そうとしています。みんながそう思っているときに起こるのが争いであり戦争です。

聖書では、お金持ちになることや、地上の物を持つこと自体が否定されているのではありません。それらは、私たちが良い目的のために用いるために与えられた神のプレゼントであるからです。しかしあることが関係してくるとき、神からのプレゼントは悪用され、マイナスの結果をもたらすのです。分かれ目はすでに見てきたように「自分の」(my)という小さな言葉です。そしてこれこそ不幸をもたらすのです。神の子キリストは、「自分の」を解決するために来てくださったのです。「自分の命」を含めすべての「自分の」を放棄することによって。