罪の起源 人間①

あなたがたは、以前は自分の過ちと罪の中に死んでいたのです。 エフェソの信徒への手紙 2:1


「岸から3メートルのところで溺れ死んだ」、と泳げる人が聞けば泳げる人は「なぜ、たったの3メートルを泳げなかったのか」と不思議に思うかも知れません。しかし「泳げない」とは、そもそもそういう意味であるのです。

そして多くの残念なことは、実はそのようにして起こっていることに気がつくのは簡単ではありません。大きな社会も、小さな社会も、人が二人以上集まるところ、必ず問題が起こります。家庭や教会も例外ではありません。映画に出てくるような大悪党や、テロや銃乱射や凶悪な事件によって、社会が混乱するとはあるでしょう。しかし多くの場合は、新聞にもテレビにも出ないもっと小さな争いが、様々な悲しい結果を導き出しているのです。

自分に意地悪をした人をゆるせない。たったそのいようなことが、その人の人生の全体を黒雲が覆ってしまうこともあります。最も身近な家庭も例外ではありません。浮気、ギャンブル、DVなど、深刻な罪によって家庭が破壊される場合もあるでしょう。しかし家庭でも、もっと小さな不親切やささいな争いの積み重ねによって、深刻な結果に到達することの方がはるかに多いのではないでしょうか。

新聞の悲惨な事件を読めば、「何んでそんなつまらないことから、そんなことになるの」と思うことが多いかもしれません。しかしそれほど極端ではなくとも、私たちの多くも実は他の人から見れば「なんでそんなことで」というものはないでしょうか。

人間関係は、ほんのささいなことによってこわれてしまいます。してはならない小さな行為や言葉が、重大で悲しい結果に終わることがあります。アダムの罪は、その代表であり最初の例です。「ほんのささいなこと」、「ごく小さなこと」、それができないのが人間です。やられたらやりかえしたい、という思いをどうすることもできないでしょう。口からは、出してはならない言葉が二つ三つ出てしまいます。あやまることをしないで、自分を弁護する方法をまず考えます。人間関係を破壊する、「ささいなこと」「小さなこと」を止めるのは難しいのです。いや、できないのです。

岸から3メートルのところで溺れるのは他でもない私自身であるかもしれません。泳げる人なら、そんなことで死ぬなんて、と思うかも知れません。でも、本人は3メートルを泳いで助かることはできません。そして、死んでしまいます。それが、アダム以来の人間の悲しい姿です。しかし、キリストの十字架は、このように罪の奴隷から人を解放したのです。

罪はいつの時代にも、どんな場所にもあります。この罪の普遍性についてはすでに考えました。次に考えなければならないのは、この罪は一体どこから来たのかという疑問です。罪の普遍性とともに宇宙最大の問の1つであり、哲学者や平和主義者が、そしてすべての人が「なぜ?」と問い続けてきた人類最大の難題です。


性善説と性悪説の説明

まず性善説による説明があります。生まれたとき人の心は真っ白で、その後、この世の様々な誘惑と悪影響によってだんだんと黒くなっていくのだ、と考えるのが性善説です。「渡る世間に鬼はなし」の精神です。このような人間理解は一面では確かに正しいと言えるでしょう。純情な中学生や高校生も、悪い雑誌やビデオを見たり、悪い仲間に入って、だんだんと悪くなっていきます。「朱に交われば赤くなる」の精神です。

1974年から78年の約4年間に、本人の自白だけで30人の若い女性と絞殺して死刑になった、アメリカ人のデッド・バンディーの生涯は、人はどのようにして黒くなっていくのかをあざやかに示しています。実際の犠牲者は100人以上かも知れないとも言われる犯人に、本人の希望により死刑の前日に面接したある精神科医の報告をインターネットで聞いたことがあります。実は本人も何人の女性を殺害したのかは分からないというのです。たぶんそれは本当なのでしょう。しかし最初の殺人のことについては、克明に覚えていると言うのです。犯罪を繰り返すうちに、良心はだんだんと鈍くなり悪魔のようになっていったのです。

しかし性善説では説明のできない多くのことが残るのも事実です。たとえば2~3歳の幼い子供の場合はどうでしょうか。まだ悪い雑誌を読むことも、悪いビデオを見てもそれを理解することもできない、そんな小さなこどもたちも、それなりに罪をおかすのを私たちはよく知っているのです。弟のおもちゃを取り上げて泣かせます。お母さんにウソをついてでも、自分を守ろうとします。「おもちゃをかたずけなさい」と言っても、したいことをしています。まだ誰からもそのような悪を学習する機会がない子供たちをどのように説明するのでしょうか。まわりの人がウソをつくのをヒントにして、自分でもやってみたのでしょうか。性善説では説明がついかないことがむしろほとんどであると言わなければなりません。


性悪説の説明

「性善説」に対しては「性悪説」があります。「人を見たらどろぼうと思え」の精神です。ただし、人はすることなすこと悪いことばかりという意味ではありません。悪はもともと備わっているが、善は生まれてから後で学習するものだというのです。

確かにそのような実例は少なくなく、「性悪説」も正しいようにも思えます。しかし「性悪説」だけでも人間の善と悪を十分には説明することができません。「性善説」でも「性善説」でも、良い教育をすれば、人間はどんどんと良くなっていくはずですが、現実は必ずしもそうではないことを私たちはよく知っているはずです。悪い人は、悪い家庭からも教育熱心な良い家庭からも生まれてきます。

つまり、性善説でも性悪説でも、この世には良い人も悪い人もいる、ということになります。ただ生まれた後に、学習するのが善であるのか悪であるのかが違っているだけです。「性善説」は、人は悪を学習しないように常に努力しなければならないと言い、「性悪説」は善を学習するように努力しなければならないと言います。最終的には、性善説も性悪説の非常似ているように思えます。しかしどんなに多くするべき正しいことを教えられても、どんなに多くしてはならない悪いことを教えられても、それに従おうという思いがなければ、何も良いことははじまりません。


善か悪か

では聖書は人間の罪の起源をどのように説明するのでしょうか。聖書の人間観は「性善説」と「性悪説」と共通する部分と、全く異なる部分があります。聖書の人間観は基本的には一種の性悪説と言うことができますがですが、ただし真っ白や真っ黒ではなく、両方を混ぜた灰色です。真っ黒は悪魔ですから、生まれたとき人の心は真っ黒というわけではありません。どんなに悪人と思える人であっても、なんらかの善をおこなうことはあるでしょう。悪人もある面では私たちよりも立派な態度を示すかもしれません。墜落した軽飛行機に積まれていた大金をめぐって、最初は最も正しいことを主張していた人が、最後には最も悪い人になって大金を横取りするという映画がありましたが、ありそうな話です。

灰色とは、罪が人の心と行動のすべての領域にしみ込んでいる状態です。悪いことも良いこともする。しかしどんなに良いことをしても、その中にも大なり小なり罪が入り込んでいる。たとえば善いことをしても、人にほめられるため、義理でお見舞いに行く、などの思いも少し混ざっているかもしれません。

すでに見てきたように、聖書によれば人は他の動物とは異なるものとして造られました。それを聖書はこのように表現しています。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記 1:27)。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」(同 2:7)。

やはりすでに指摘したように、「神にかたどって」はいわゆる「姿かたち」ではなく、「神に似る」「神と共通する」という意味です。すべての生き物の中で人間の心だけが、神の心に似ているのです。それゆれ、人間の心は「真・善・美」に応答するのです。真理を追い求め、道徳的な善と悪を判断し、美しいものに感動するのです。ここまでの話は「性善説」に共通するものがあります。人間の心は道徳的な善に心を動かされ、悪に怒りを感じるからです。

しかしその一方で人は、自分自身の真理、自分自身の悪、自分自身の醜さ、を知ろうとしません。それに背を向け反発さえ感じます。「性悪説」に似ています。人は一体、どちらなのでしょうか。


自分の

何かを境に頭が真っ白になって何も分からなくなる、そのようなポイントがあるのではないでしょうか。最近はビデオの予約が簡単になったのですが、ミステリー映画の最後の10分が切れていたり、以前は良く失敗をして家内にしかられたものです。次の瞬間にも犯人はだれかが分かる、というときに突然画面も私の頭も真っ白になってしまうのです。そのように、私たちはあることを境に全く分からなくなり、分からなくなってしまったことさえ分からなくなるのです。

その境とは何でしょうか。少しテストをしてみましょう。今から五つの言葉を申し上げます。そのあとで、その前にある一つの言葉をつけてみてください。その言葉をつける前と後でどれぐらい意味が違うかを自分自身でテストをしてみてください。「子ども」「お金」「時間」「都合」「名誉」。そして次は五つの言葉に「自分の」をつけてみてください。「自分の子供」「自分のお金」「自分の時間」「自分の都合」「自分の名誉」。いかがでしょうか。意味が激変してするのではないでしょうか。「自分の」をつけたとたんに、非常に重要なものに変わったはずです。

もちろん、「自分の子供」が重要であることは何も悪いことではありません。問題は、「他の人の子供」と「自分の子供」、「他の人のお金」と「自分のお金」の重要さに決定的な違いがあることです。では「名誉」の場合はどうでしょうか。「自分の名誉」が傷つけられたとき、バカにされたと思ったとき、非常に悲しくなり、また激しい怒りを感じるでしょう。だれにでも経験のあることです。「自分の名誉」を傷つけた人に、できれば復讐をしてやりたいと思うかもしれません。その勇気がなく、死ぬまで心の中で恨み続けていることもあります。

でもどうでしょうか。「自分の」が「名誉」についていなければどうでしょうか。たとえば「誰かの名誉」が傷つけられたらどうでしょうか。職場で意地悪なことを言われて根に持ち、10年も恨み続けている婦人を知っていますが、もしあなたがその婦人の知り合いならば彼女にどう言うでしょうか。たぶん「そんな些細なことで、いつまでも恨むのはやめたほうがいいよ」などと言うのでないでしょうか。

「自分の」名札が付いているかどうかによって、すべてが変わってくるのが罪の力では無いでしょうか。「自分のお金」や「自分の時間」を自分のために使うことに迷いはありません。しかしそれを他の人のために使うときには、最小限にしたいと思うのです。「自分の」を付けると最も意味が変わるのが「命」です。

1912年に沈没し約1500人が犠牲になった、タイタニック号の悲劇はあまりにも有名ですが、感動的な物語も少なくありません。3等船室でアメリカに移住しようとしていた2児の母親は、ライフ・ジャケットが二つしかないことに気付き、まずそれを子供たちにつけました。そして若い乗務員にそのことを告げると、彼は「私についてきなさい」と言ったそうです。彼は自分の船室まで案内し、そこにしまってあった「自分のライフ・ジャケット」を母親に渡しました。それは「自分のライフ・ジャケット」ではなく、「自分の命」と言うべきでしょう。


聖書の説明

罪の起源はこの「自分」という言葉に関係がありそうです。「自分」が入ってきたことにより、混乱、争い、悲劇も入ってきたのです。聖書は「自分」がどのように入ってきたのかを、物語のように説明しています。

アダムとエバは、神が食べてはならないと命じられた木の実を食べてしいました。何不自由ない幸福な生活を毎日をすごしていたアダムとエバは、楽園のエデンの園を追い出されてしまいました。というおとぎ話のようなストーリーです。これが聖書の現在の世界の説明である、と言っても言い過ぎではないと思います。詳しい説明は次回に譲りますが、ここで起こったことの中心はすべての「関係」が変わったことです。

まず神と人の関係が変わりました。人と人の関係が変わりました。そして人と物(自然)との関係も変わりました。最も重要なのは神と人の関係です。アダムとエバの物語は、食べてはいけないと言われた木の実を盗んで食べたという話ではありません。「判断」にも「自分の」をつけて「神の判断」よりも「自分の判断」を優先させたというメッセージであるのです。それ以来、人間はそうするようになりました。つまりみんなが「小さな神」になったのです。

人は「自分の」というラベルを、できるだけ多くの物に貼ろうとしてきました。みんながそう思っていますから、衝突や争いが起こるのは当然のことです。それが聖書の現在の世界の説明です。第1次世界大戦はこのようにして起こった、第2次世界大戦はこのように、、、などと歴史の本には説明されているでしょう。たしかにそれはそうなのでしょうが、聖書はもっと根本にもどって、「争いの起源」と「罪の起源」から世界を説明しているのです。

でも罪の起源を知ることはなぜ重要なのでしょうか。それは罪と争いと不幸を解決するためには根本的な原因を調べることから始めなければならないからです。病気の根本的な原因が分からなければ、正しい治療ができないように、聖書は不幸の根本的な原因にもどって、根本的な解決を示しているのです。教育や社会改革は有効であっても、限界があります。中世や江戸時代に比べるなら、現代の教育は比べものになりません。しかし親子、夫婦、を初め、人と人の関係はそれほど進歩しているようには見えません。