神は存在するのか

主なる神は御自分にかたどって人を創造された。 創世記 1:27

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。 創世記 2:6


なぜ宗教があるのか。宗教はどの時代にも、どこにでもある。だれも否定することのできない宗教の普遍性というこの事実の次に、この重要な問が続くのは当然です。ところが困ったことに、こちらの問に関しては様々な無数の答えがあり混乱しています。互いに対立するような答えも少なくありません。

第一には、「宗教は人間の発明である」という一般的な考えがあります。確かに宗教によって大儲けをしている教祖や幹部も少なくありません。キリスト教もローマ法王の地位が金で売買されるような暗黒時代がありました。

しかしたとえ人間の罪がからんでいるそのよう実例が多くあったとして、それだけで「なぜ宗教があるのか」という問の答と言うことはできません。たとえインチキの宗教であったとしても、それを信じる人々がなぜいるのか、という裏返しの質問には答えられていないからです。


動物と人間

動物と人間の違いは何でしょうか。もちろん違いはたくさんあります。たとえば動物の中で最も高等である、チンパンジーやゴリラと人間には、根本的な違いがあるのでしょうか。それとも相対的な違いにすぎないのでしょうか。

チンパンジーは道具を使うことができます。バナナに手が届かなければ、踏み台をもってきてバナナを取ります。鳥の中ではカラスが非常にかしこいことは良く知られています。カラスが硬い殻のままのクルミを自動車学校の道路に落とすのをテレビで見ました。自動車に殻を砕いてもらって、中身のクルミを食べるのです。イルカも賢い動物として良く知られています。ゾウは足し算もできるそうです。もちろん人間の賢さとは比べものになりませんが、それでは程度の違いにすぎないのでしょうか。

動物と人間の決定的な違いは言葉であるという考え方もあります。確かに人間は言葉が豊かで実に多くのことを言葉で伝達することができます。しかし動物には言葉らしきものがないわけではありません。さきほどのイルカはかなり高度なやり取りとイルカ同士でしているらしく、北太平洋と南太平洋のイルカの言葉は違うそうで、また方言もあると動物学者は指摘しています。それを通訳できるイルカもいるそうです。

やはり人間は言語や知恵などの、動物とは進化のレベルが違うだけのより高等な生物にすぎないのでしょうか。それは生物学者たちの一般的な考え方であり、現代の一般的な考え方であるのは確かです。


決定的な違い

聖書は動物と人間を決定的に違うものとして区別してこのように記しています。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記 1:27)。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」(同 2:7)。人間だけが神にかたどって造られたと書かれています。人間だけが、鼻に神さまの息を吹き入れられたと書かれています。これはどういう意味なのでしょうか。

聖書の神は霊でありかたちがありませんので、いわゆる姿形という意味ではなく、神に似た者として造られたという意味です。そして「その鼻に命の息を吹き入れられた」もほとんど同じ意味です。

人間も動物の一種ですから、他の動物と共通する多くの部分があります。しかし動物には絶対にないあるものが人間にはあると聖書は言っています。程度やレベルの差ではなく、人間以外の動物には全く見られないものが人間にはあるという意味です。つまり聖書は人間は動物の延長線上にある、単なる高等な生物ではなく、全く特別の存在であると言うのです。


歴史の中の哲学者や神学者は、それを真・善・美と表現してきました。それぞれ「真理を求める感覚」「善いことが分かる感覚」「美しいものを感じる感覚」という意味です。これが人間と他の動物を区別する決定的な違いであると言うのです。そういうことはいわゆる動物には、あまりない、少ない、のではなく一かけらもないと言うのです。

ではまず、「善」から考えてみましょう。「善」の訓読みは「よい」、「正しい」という意味です。数学や物理の答えが正しいか間違っているかというより、道徳的な正しさです。偽善者は道徳的に正しいふりをする人です。「正義」も「善」の一部です。

先ほどの聖書の理屈によれば、動物は正しいかどうかで判断をして行動をするのではありません。夢がなくなってしますかも知れませんが、ディズニーの動物映画では、悪党にかみつくなど正義感が犬や動物にもあるかのように見えていますが、演出にすぎません。もちろん子供や仲間を守ることには、ときには人間以上の勇気を発揮することもありますが、それが道徳的に正しいかどうかを判断しているわけではありません。いわゆる「本能」によって行動しているのです。

人はそれが正しいかどうかを、大なり小なり判断して行動をする唯一の倫理的な生き物です。もちろん人はいつでも正義を行うわけではありませんので、そのときには大なり小なり良心の呵責が伴います。「大なり小なり」と言ったのは、個人差があるからであり、そのため相当の悪いことをしても良心の呵責をあまり感じないような人もあります。良心の敏感さや鈍感さにはそのように個人差がありますが、悪いことをして良心の呵責がまったくないような人は一人もありません。ただそう見える人があるだけです。また同じことをしている間に、だんだんと良心の感覚がなくなっていくことはあるでしょうが、最初からそうなのではありません。


次は「美」の感覚を考えてみましょう。たとえば音楽を作曲したり、その音楽を鑑賞して喜ぶことができるのは人間だけです。カナリヤや鈴虫など、動物や虫たちの音楽的で美しい鳴き声はよく知られていますが、私たちの言う音楽を演奏しているのではありません。それはメスを呼んでいたり、危険を知らせる合図であったりするのです。バッハやモーツアルトの音楽は、カナリヤや鈴虫の鳴き声の進化したものではなく、人間だけがその美しさを感じることができるのです。

カラスは夕焼けを美しいと感じているのでしょうか。最終的にそれを知る方法はありませんが、聖書の理屈ではそうではありません。確かにオスの孔雀はメスの孔雀に美しい羽を広げてアピールすることは知られていまが、やはり私たちが音楽や絵画を美しいと感じるのとは違うと言わなければなりません。オスの孔雀の美しい羽も、ダチョウのメスには何のアピールにもならないと思います。


真理

人間は真理を追究しようとしますが、動物にはそのような思いはありません。天文学者は私たちが全く気付かないたいくつな星の動きに心を躍らせ、毎晩、何時間でも望遠鏡をのぞいていることができます。物理学者は目には見えないが、宇宙の大部分の質量を構成するダークマター見つけるのにやっきになっています。怠けている子供たちには分からないでしょうが、勉強が分かってくるとどんな学問でもだんだんと面白くなるものです。

科学的な真理だけが真理なのではありません。証明できないような真理もあります。たとえばリンゴがおいしいことを完全に証明するのは簡単ではありません。証明できないからといってリンゴがおいしいのは本当ではないと言うのは明らかに間違っています。価値ある演劇や文学作品は人間の心理の真理を描いているから面白いのです。実際にはまったくあり得ないような物語の中に、どこにでもある人間の心の真理が示されているのです。

そして宗教的な真理も同様にほとんどが証明することはできません。宗教は人間の最も奥深いところにある心の活動です。近代国家の多くは、政教分離の原則を採用しているのはそのためです。車は左側を走らなければならない、親は子供に義務教育を受けさせなければならない、などと日本の法律は定めていますが、国家は宗教や思想など人間の心の中まで入り込んではならないという原則です。たとえば、愛とは何か、国を愛するとは何か、などを国家が定義してそれを国民に押し付けてはならないのです。


普遍的な真理と神の存在

証明できない真理があることをすでに指摘しましたが、それらの真理はさらに重要な真理を証明しているように思えます。「愛」や「愛の量」を数学や物理学のように証明すしたり量ったりすることはできません。母親が子供のために流す涙と、財布を落としたときに流すくやし涙を、物理学は区別することができません。しかし証明できないとはいえ、別の視点からは二つの涙は違うことは明らかです。「愛」は人間が最も必要としているものであることも確かな真理です。

なぜ人間の心はあまりにも似ているのか。もちろん人の心は一人一人みんな違っているのは当然です。しかし共通点に比べれば、個人的な違いは非常に小さなものです。愛され親切にされるときの心が温かくされ、不親切や意地悪な行為に心が傷つき冷えてしまいます。美しいものに感動し、けがらわしく醜いものに顔を背けます。

人間の心がそのようにみな同じようになったのは偶然なのでしょうか。そのように考えるより、その背景に人格をもったお方が人の魂を造られたと考える方が合理的ではないでしょうか。聖書はそれを「神は御自分にかたどって人を創造された。」「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」と表現しています。

すべての生物の中で人間だけが、神にかたどって創造された、と記されています。いわゆる姿形ではなく、神に似る者として造られたという意味です。英語の聖書では「イメージ」という言葉が用いられ、「神のイメージに人は創造された」となっています。愛や正義や美しいものに感動する心、真理を喜ぶ心、はどんなにゆがめられ覆われていても、神によって造られたため、完全に消滅することはありません。悪いことをして良心の呵責を感じるのは、良心を通して神が語りかけているのです。そしてだれ一人この良心の語りかけから逃れることはできません。「良心さんは声が大きい」という言葉は本当です。

神の存在を数学や物理のように証明して答えを出すことはできせんが、証明できることだけを信じるのは非常にかたよった考えです。ベートーベンやモーツアルトの音楽の美しさや力強さも完全に証明することはできません。


神の存在

神が存在するかどうかは、愛や音楽と同じように、完全に説明したり証明できるものではありません。科学や物理学の世界でも、偉大な学者はみな普通の人々が見ないようなところに目をつけた人々ではないでしょうか。そのようにして数々の望遠鏡で見えない星や星雲を発見してきました。

神も天体望遠鏡で見ることはできません。しかし神さまはいらっしゃるという、様々な間接的なサインを感じないでしょうか。そのうちの一つとして今日は、人間の心は似ているということを考えました。アメリカでヒットした音楽が、世界中でヒットするのはなぜでしょうか。なぜ人の心はそんなに似ているのでしょうか。人格のあるお方が、人の魂にその息を吹き入れられたから、というのが聖書の説明です。もちろん文字通り、風船をふくらませるように人間の口に神が息を入れた、と文字通り解釈する必要はありません。人間には神の霊が宿っている、という意味です。だから、真・善・美の感覚が備わっているのです。


ストレス・空しさ・不満足

すべての人が心当たりがある、神の存在を暗示するもう一つのことがあります。それは満足しない心です。むなしさ、いらいら、ストレス、不満足、などです。動物たちは人間のように、空しさを感じることはないと思います。そのため動物には自殺はありません。人は願っているものを手に入れても、満足するのは束の間。もっと新しいもの、もっと良いものがほしくなって満足できなくなるのは、時間の問題です。なぜ人間の魂だけがそうなのでしょうか。いや何かを手に入れたため、かえって不満が大きくなることもあるのです。欲望のカップは半分しか満たされないからです。欲望のカップが大きくなれば、満たされない部分も大きくなるのはむしろ当然です。

「欲望を捨てなさい。」というお説教をしようとしているのではありません。不満やイライラやストレスは、最も重要なことを忘れていませんかという、人間だけにある重要な問いかけに対する答えであることを見逃してはなりません。スポーツカー、流行のドレス、宝石、海外旅行。そのようなものでは最終的に満足できないように、人はつくられているのです。

聖書は神の存在だけでなく、悪魔の存在も前提に書かれています。もはや中世の民話や子供のおとぎ話にだけ登場するのが悪魔ですが、この悪魔の仕事は何でしょう。それは「神は存在しない、悪魔も存在しない、天国も地獄もない」と思わせることであり、中世よりも今、悪魔は最も良い働きをしているのだと思います。

振込詐欺が後を絶ちませんが、詐欺師が最も気を遣うのは何でしょうか。それは詐欺師に見えないことです。もっとあれば幸福になれる、というこの詐欺師の言葉を信じながらついに墓に到達します。その前に静まって、見えない世界のことを考えてみましょう。