宗教の普遍性

主なる神は御自分にかたどって人を創造された。 創世記 1:27

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。 創世記 2:6


宗教とは何でしょうか。科学と対立するものなのでしょうか。死が近くなって、天国が気になる人たちに関係のある慰めなのでしょうか。大勢の日本人が毎年初もうでに出かけるのも、お坊さんを呼んで葬式をするのも、仏壇に手を合わせるのも、秩父34カ所札所巡りも、単なる習慣なのでしょうか。

確かに最初の理由が失われ習慣化してしまった宗教行事や儀式も少なくありません。科学の発達した現代人には滑稽な信仰もあります。しかしそのような説明だけでは、「宗教は何か」、「なぜ宗教があるのか」という重要な問に対する、十分な答えということはできません。


科学の進歩と人間

19世紀から21世紀にかけての200年間に、科学は驚くべき進歩を遂げました。「高齢者」や「後期高齢者」と呼ばれるようになった人々が、まだ「子供」であったころには、人類が月に行くことは思いもよらなかったでしょう。医学の進展や新薬の開発によって、不治の病と言われた病気も治るようになっていきます。iPS細胞の発明によって、治る病気が驚異的に増えることも期待されています。

しかし200年前には、想像することもできなかった不幸を科学の発達によって生み出されたことも事実です。たとえば戦争の仕方を考えてみてください。その昔には、一人の兵士が一人かせいぜい数人の敵を倒すのが精いっぱいだったのが、鉄砲の発明で一人で10人も20人も殺すことが可能になり、さらに大砲や爆弾の発明により、スイッチ一つで何百人いや何千人や何十万人をも一瞬にして灰にしてしまうことも可能になりました。第二次世界大戦の犠牲者は全世界で、2500万人とも3000万人とも言われています。さらには核兵器の開発により、限りなく恐怖が増大してきたこともまぎれもない事実です。このアンバランスは何でしょうか。それを説明しようとするのがキリスト教の経典である聖書です。

過去200年間には、それまでの2000年間以上の科学と科学技術の進歩があったことは事実であっても、それを用いる人間の方はどうでしょうか。2000年間どころか数千年の間にも、人はほとんど変わっていないのではないでしょうか。たとえば21世紀の夫婦関係や親子関係は、江戸時代や平安時代の夫婦より、驚異的に進歩したのでしょうか。学校はどうでしょうか。犯罪はどうでしょうか。人間は心に関しては、驚くべき進歩を遂げたとはとうてい言えないのが現実です。


宗教の普遍性

宗教とはそもそも何なのでしょうか。世界には非常に宗教的な国があります。たとえば中東の国々のイスラム教。イタリア、スペイン、南米などのキリスト教(カトリック)。タイやミャンマーなどの仏教。イスラエルのユダヤ教。しかし一方では、宗教の必要を感じていないように見える人も少なくありません。八百万(やおよろず)の神がいる日本の神道や日本の仏教は習慣化され、宗教性はほとんど失われているとも言われます。

ある統計によれば、世界の宗教人口の割合は、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教の四大宗教で、74パーセント(それぞれ、35パーセント、19パーセント、14パーセント、6パーセント)。その他の宗教が13パーセント、無宗教と無神論が13パーセントとなっていました。統計によって多少の差があるのは当然ですが、大きな差ではないことは少し意外に思いました。その統計には、無宗教と無神論は何が違うのかの説明はなかったのですが、後者は意識的に宗教を否定する人々のことであるかも知れません。またどれぐらい真面目にそれぞれの宗教を信じているのかまでは勘定に入っていないと思われます。

いずれにしても、科学の発達した時代にも、圧倒的大多数の人々は何らかの宗教を持っているというのが現実であるようです。電車の中で大っぴら「神を信じない」と言える国は、日本ともう一つぐらいかな、とも言われます。そしてこのような傾向は、今にはじまったことではなく、人類何千年の歴史を通じての普遍的な現象です。宗教がまったくなかった時代も、宗教がまったくないような場所も、歴史の中ではなかったのです。

宗教改革者カルヴァンは、全く宗教的でないような人は世の中には一人もいない、すべての人の心の中には「宗教の種」があると断言しています。その種がどれぐらい成長して外側に見えるようになっているかの違いがあるすぎないというのです。

確かに全く宗教心がないどころか、積極的に神や宗教を否定する人々は少なくありません。共産主義国家は宗教には否定的ですが、宗教を完全に撲滅することができた実例は歴史の中で一つもありません。中国では宗教を公言する者は共産党員になれませんが、一般の市民に宗教が禁止されているわけではありません。世界で最も非宗教的な国家はおそらく北朝鮮であると思われますが、現実は定かではありません。いずれにしてもこの宗教の普遍性を完全に説明できた思想家や哲学者は一人もありません。


自然の本

神はいるのかいないのか。いるとすればどんな神なのか。神は何人なのか。人類にとって最大の問です。しかしすべての人にとって共通の答えはまだ出されていません。これからも無いという答えだけが確かな答えです。

ある人は「神などない」と言い、ある人は神は存在すると言います。どちらが正しいのでしょうか。「両方が正しい」という答えが間違っていることだけは確かです。

神は存在すると考える人々の中でも、神のイメージは無数にあり、さらにそれぞれの神は互いに全くと言ってよいほど異なっているのです。イスラム教の神、ヒンズー教の神、ユダヤ教の神、キリスト教の神、そして日本だけでも八百万(やおよろず)の神、目に見えない神、象のような神、山の神、川の神、どれが正しいのでしょうか。

「全部が正しい」という答えが間違っていることだけは確かです。八百万の神があるという考えと、神は唯一と考えるキリスト教やイスラム教のどちらも正しいとどうして言えるでしょうか。1+1=2でも3でも4でも正しい、と小学校の先生が教えているなら、そんな小学校に我が子を入学させたいと思う親があるでしょうか。「全部間違っている」のか「その内の一つが正しい」、このどちらかの選択しかありません。

でもなぜ神についてそんなに多くの考えがあるのでしょうか。それは自然という本には様々な読み方があるからです。「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と性質は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って彼らには弁解の余地がありません。」(ローマの信徒への手紙 1:20)。

自然すなわち聖書の言葉では「被造物」は、神の存在はもちろん、神がどのようなお方であるかも雄弁にそして明確に語っているというのです。しかし、みんなが好き勝手に自然という本を読んだため、世界にはこんなにも多くの神が存在することになりました。


無神論と有神論

まず自然と被造物から、神など存在しないと読んだ無神論者があります。そして神を否定する仕方は、神を信じる仕方と同じように無数にあるのです。「神は死んだ」と言った有名な哲学者があります。哲学者のように言葉で神を否定しなくても、神は存在しないかのように生きている実質的な無神論者があります。深刻なことに神は人間の発明であると、堂々と宣言する有名な聖書学者さえあります。そのような人々にとってすべてのことは偶然です。

一方聖書によれば、被造物によって真の神が存在すること、その神がどのようなお方であるのかが明らかに示されているというのです。たとえば大宇宙は神の力と支配を雄弁に宣言しています。大自然は神の知恵と秩序を全被造物に明確に告げています。

機械式時計の裏ぶたを開けると大小の歯車が組み合わされ、時を刻んでいます。それを見て、「こんな正確なものが、自然にできたなんて不思議だなあ」と言う人があるでしょうか。もちろんそんな人はありません。時計は誰かが設計し工場で作られたことを知っているからです。時計の話は、秩序の裏には人格がある、と考える方が自然であると言っているのです。ビニール袋の中に豚肉、にんじん、たまねぎ、パイナップル、そして酢としょうゆとでんぷんを少々加えて100年間振り回していても何もできません。しかし主婦はそれを15分でおいしい酢豚にして、夕食の食卓に出しみんなを幸福にすることができるのです。

人間の体は機械式時計やデジタル時計よりもはるかに成功にできています。毛細血管の長さは約10万キロで地球2周半です。目だけを考えてもどんなカメラより正確にできています。人間の体の神秘には限りがありません。こんな秩序と調和の背景には、偶然と長い時間というより、人格の神を想定する方が自然ではないでしょうか。


良心のかたち

聖書はまず、創造された被造物を通して、神がご自分の存在と性質を現しておられると教えます。そして自然を通して語られるのは、たとえば神は存在するかどうか、神の力はどのぐらい大きいか小さいか、神の力はどのぐらい遠くまで届くか、など主に神の存在に関するものです。

聖書はさらに、少し違う仕方でも神がどのようなお方であるかを人間に知らせているというのです。神はすべての人の心に、道徳的なメッセージを語る手段をも持っておられるのです。「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、またその思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(ローマの信徒への手紙 2:15)。

そしてこの「良心さんは声が大きい」のです。良心も神が存在することを証ししています。人間の良心があまりにも似ていることに驚かないでしょうか。50億人の良心が似ているのはまったくの偶然なのでしょうか。アメリカ人も日本人も中国人も、良心の形はあまりにも似ていないでしょうか。人間が単に単細胞の生物から進化した高等な生物にすぎないのであれば、もっといろいろな良心のかたちがあってもよさそうなものです。しかし、事実はそうではありません。

社会生活をしていくうちにみんな同じような良心になっていくのでしょうか。もちろんそのような面も否定する必要はありませんが、幼い子供たちのテレビ番組も、子供の良心のかたちは同じという前提で作られているのは明らかです。ウルトラマンが最後には悪い怪獣をやっつけることを、子供たちはみな期待していると番組の製作者は知っているのです。怪獣が地球を滅ぼして人類を征服し、悪代官が善良な市民をいじめて甘い汁を吸うことに喜びを感じるような魂はありません。不思議なことに、マフィアの親分ですら例外ではありません。

このようにしてすべての人間の心に与えられた良心は、罪を見逃すことのできない完全に清い神が存在することを証言し続けているのです。


プライド

ではどうして神を信じない人がいるのでしょうか。自然や良心が神の性質、神の偉大さと神の清さを伝えているのであれば、どうして、人間や獣やはうものなどに似せた像を神のように礼拝するような宗教があるのでしょうか。

先ほど引用した新約聖書の箇所のもう少し前に「妨げる」という言葉があります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されました」(ローマの信徒への手紙 1:18)。

問題は人間が神の語りかけを妨げていることです。自然による啓示自体は神を知らせるのに十分であるにもかかわらず、人間にとって都合の悪い真理は、否定したり都合が良いように曲げてしまったのです。それが無神論や偶像礼拝が存在することに関する聖書の説明です。

人間の心の中まですべてを知りつくしているような神がいては都合が悪いでしょう。そこである人々は、神などいない、神は人間が作ったものだと考え、ある人々は人間の願いをかなえてくれる都合の良い神を考えました。ある人々は積極的に神の真理と戦い、ある人々はそんなことは考えないようにして生きているのです。

「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり」(ローマの信徒への手紙 1:22)と記されているように、人が神の真理を妨げようとする根本的な理由はプライドです。プライドはアダムとエバの罪の原因でもあったのです。彼らの罪は単に木の実を盗んで食べたことではありません。神の律法によって生きるのを止め、自分が律法になりました。つまり人間はそのときから、神の判断よりも自分の判断の方が正しいと考えるようになり、そのような考え方は今日まで続いているのです。

その結果は明らかです。みんなが小さな神になり、自分の律法に従って生きるようになりました。「正しいのは、それは私だ」とみんなが考え、それゆえ、互いに裁き合い、互いに攻撃し合い、互いに争うような世界になったのです。それが、世界はなぜ、私たちが知っている今日のような状態であるかの、聖書の説明です。

石油の権利、領土問題、人種問題、などから確かに世界と世界の歴史を説明することはできるでしょう。第一次世界大戦はこのようにして起きた、第二次世界はこのようにして、と説明することができるでしょう。しかしそれは表面的な説明にすぎません。世界で戦争や内乱がなくならない根本的な理由は、夫婦や親子の中でも争いが絶えない理由と同じです。みんなが小さな神になったことです。八百万どころか50億の神が存在しているからです。みんなが自分は正しいと思うようになれば、何が起こるかは火を見るより明らかです。それが今の世界、今の社会、今の家庭の状態に関する聖書の説明です。


霊的な闇

その結果として人間の心に起こったことはこのように記されています。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(ローマの信徒への手紙 1:21)。プライドの結果、「心が鈍く暗く」なったのです。心が暗くなり自然を正しく読み取ることができなくなりました。真の神の栄光も見えなくなり、自分が輝くことを第一に考えるようになり、しかしますます心は暗くなっていきました。

暗い場所に最も必要なものは光です。真の神が分からなくなった人の暗い心に、神は光を照らしてくださいました。それが聖書であるのです。聖書は単に、もう少し立派な人間になるためのガイドではありません。幸福で良い人生を生きるための良書でもありません。

結果的には確かに聖書に導かれ、より良い人生より幸福な人生を歩むようになるでしょう。しかし聖書は人間と神に関するもっと根本的なテーマを扱っているのです。暗い心の最大の問題は何でしょうか。暗いことに気付かないまま生きていることです。そしてそれこそが、もっとも恐ろしいことではないでしょうか。