幸福な人・不幸な人

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 マタイ福音書 5:1~5


幸福な人が少ない理由

世界中のすべての人が幸福を願っています。不幸を願っている人など一人もいないはずです。手を放すとリンゴは下に落ちる。月が地球の周りを回り、地球が太陽の周りを回っている。それと同じぐらい確かな事実です。それにもかかわらず、本当に幸福な人が非常に少ないのはどうしてなのでしょうか。一時的に幸福の絶頂に上る人はいくらでもあるでしょう。しかしそのような人々はかえって絶望のどん底で自らの命を絶っている場合も少なくありません。クレオパトラ、 マリリン・モンロー、アドルフ・ヒットラー、アイドル歌手、等々。人生をだれよりも不幸な仕方で閉じるのは、多くの人が求める幸福の条件を満たしているかのように思える人々が少なくありません。

どうしたら幸福になれるのか、だれもが心のどこかに秘めている質問です。そしてこの質問は裏返せば、それが何であれ、どうしたら今の不幸から抜け出せるのかという質問になるのだと思います。しかし我流の方法では、リンゴが下に落ちるような確かな結果が出ないのが現実であることも、私たちは経験からよく知っています。

しかし幸いなことに、そのような質問に対して聖書には明確な答えがあります。しかし不幸なことに、それは人々が願うような答えではなく、むしろまったく願わない答えであるのです。そのような仕方で幸福になるとは思えない、むしろそんなことは御免だと思うのが普通です。そしてそれこそが、すべての人が幸福を願いなが、本当に幸福な人が少ない理由であるのです。


選択

「幸福は選択である」(英語題: Happiness Is a Choice、日本語題:「うつをやめれば楽になる」)といううつ病に関する本が教会の本棚にあります。本のタイトルを見ただけで、通常のうつ病の本とは少し違うなと分かります。二人のクリスチャンの精神科の医師の共著であり、聖書の引用も少なくないのですが、日本語版はキリスト教の出版社からでなく一般の出版社から出されています。耳鼻科や脳外科の医師とは異なり、精神科は人の魂と心を扱う医者であり、人間の魂の起源や魂を動かす原理が記された聖書を知らなければならないと私は思っています。

本の著者は、うつは自分自身が完全につぶれてしまうことから守る本能であり、もっとつらいことから自分を守るため、うつは自分で選び取っていると言うのです。しなければならない何か、直面しなければならない何か、それはみなそれぞれ違っているのですが、それに直面しそれをするよりも、暗く悲しいうつの状態の方がましだ、と無意識に思っていると言うのです。

今日のメッセージは、うつ病や精神科の話ではなく、幸福と不幸の問題です。このような話をしたのは、幸福と不幸も実は私たち自身が選択しているからです。アブラハム・リンカーンは「大半の人は自分が選んだだけ幸福なのだ」と言ったそうです。裏返せば「人は自分で選んだだけ不幸になる」とも言えるのです。


心の貧しい人々

では幸福になるための方法であるにもかかわらず、多くの人が避けようとすることとはいったい何であるのでしょうか。それが「心の貧しい人」になることです。そしてそのような人は「幸いである」とキリストは宣言しているのです。

この世の常識からは相当かけ離れている、とだれもが感じるのではないでしょうか。「心の貧しい人々は幸いである」に限らず、ここに書かれている「幸い」は、どれも一般社会では不自然なものばかりです。この世では、自信をもって輝いている人々が幸いと言われるでしょう。悲しんでいる人々ではなく、喜んでいる人々が幸いです。「迫害される人々は幸いである」にいたっては、もう頭が狂っているのではないかと言われるかも知れません。別の言い方をします。「自分が幸いであると考えるのはまだ早い、それは大変な誤解であるかもしれない」と言いたいのです。自分は不幸だと思っている人にも同じように言わなければなりません。「自分が不幸であると考えるのは、もう少し待ってください」と。

キリストが言う「心の貧しい」とはどんなことなのでしょうか。「貧しい」とは、言うまでもなく、金銭をあまり持っていないという経済的な状態です。最も極端な状態にあるのが「こじき」です。日本では考えにくいのですが、インドの町では、タクシーが信号で止まるたびに、窓から二三本の腕がにゅっと目の前に差し出されて驚くことでしょう(インドのタクシーはエアコンがないため窓は開いている)。彼らは財産も仕事もないので、他の人に頼る他はないのです。もし、誰にお金をもらえなければ、その日は食べものなしですまさなければなりません。「貧しい」に「心」がついていますので、心がそのような貧しい状態だ、ということを知っている人は幸いであるという意味です。

私の内には良いものが宿っていない、私は神に頼らなければやっていけない、と思っている心の状態です。この世の考えとは正反対です。この世は、「自信を持ちなさい」と言います。「もっと良い人間だと思いなさい。そうすればセルフ・イメージが上がるでしょう」と言います。しかし聖書はこの世の傾向とはまったく反対の方に向かっているように思えるのです。

でもなぜ、そのようなみじめな人が幸いであると言うのでしょうか。答えは、すでに申し上げました。そのような人は自分ではなく、神に頼るようになるからです。そして神の恵みと力で満たされるからです。両手にいっぱい荷物を持っている人は、それ以上は何も持つことはできないでしょう。すでにいっぱいになっているカップに、それ以上は葡萄酒を一滴も注ぐことができないでしょう。神は心が自信で満ちあふれている人に、それ以上はもう恵みを注ぐことはできないのです。高い山に登るには、まず低い所から始めなければなりません。


悲しんでいる人々

幸福な人の二番目は「悲しんでいる人」です。これも世の中の常識からかけはなれています。悲しんでいる人々は、何を悲しんでいるのでしょう。失恋をして悲しんでいるのでも、さいふを落として悲しんでいるのでもありません。「悲しんでいる人々」は、その前の「心の貧しい人々」からの続きであり必然的な結果であることが最も重要です。彼らは心が貧しいことを悲しんでいるのです。目にごみが入ると強制的に涙が流れます。世の多くの悲しみはそのような悲しみであり、幸いな悲しみではありません。

主イエスの言われる「悲しんでいる人々」は、いやいや悲しんでいるのではなく、罪に支配されている自分の心の状態を「心から」悲しんでいるのです。イスラエルの王ダビデが自分の詩である詩編51であらわしているような悲しみです。ダビデと悲しみの間には、強制も緊張も敵対関係もなくごく自然です。「あなたに、あなたにのみわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」「やっていない」と犯行を否定する犯罪者の場合と対照的です。ダビデは自分の罪を弁護することも、開き直ることも、裁きが重すぎるので控訴しようとも思っていません。自分の罪と、罪に対する裁きが正当であることを神の前に素直に認めているのです。これが「悲しんでいる人々」の典型的な実例であり、幸福な人になるために不可欠の要素です。


その人たちは慰められる

食事が満腹している人ではなく空腹の人のものであるように、慰めは喜んでいる人ではなく悲しんでいる人々のものです。悲しむことなしに慰めはありません。自分の罪を他の人のせいにしたり、自己弁護をしたり、誰でもしていると開き直る人には真の慰めはありません。詩編51は真に悲しんでいる者の歌であるというだけでなく、確かに慰められた者の歌でもあるのです。「わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。」

幸福になるために最も重要なのは順序です。まず幸いを求めるのではありません。まず慰めを求めるのでもありません。それはどこにでもあるこの世の方法であり、神の国の方法ではありません。まず私たちは、幸福であるのかそうでないのかを考えます。幸福であるかそうでないのかだけに関心があるからです。そしてあまり幸福でないと思っている人は、どうしたら幸福になれるかと考えます。たとえば何か楽しいことをすれば、もっと幸福になれるかもしれないと思うのです。またはあるものを手に入れれば幸福になると期待するでしょう。30秒に1000万円をかけたテレビのコマーシャルも、そのような考えを応援するでしょう。またあるいは、今の苦しみが去れば次には幸福がやってくるだろうと期待するかもしれません。

大切なのは順序であると申し上げました。誰もが幸福を願うのであり、不幸をわざわざ願う人はありません。しかし、「幸いである」と言われているのは、幸福を願う人でも幸福になろうと努力する人でもなく、そのうちに不幸が去るようにと願う人でもありません。「心の貧しい人々が幸い」なのであり、心の貧しいことを「悲しむ人々は幸いである」と言われているのです。そこがすべての幸福の出発点です。


受け入れること

乗客乗員224人を乗せたロシアの旅客機、エアバス321がシナイ半島に墜落し、全員の死亡が確認されました。遺体を確認に来た若い妻と面接した、ロシア人の女性カウンセラーの書いた記事を読みました。そのとき遺体の損傷がはげしく、身元がまだ確認できていない遺体が三体残っていたそうです。若い妻はそのとき三人目の赤ちゃんを宿していました。死んだ夫の兄が確認に来ることになっていたため、彼女自身は傷んだ遺体を確認をしなくてもよかったのですが、彼女は迷った後で遺体を確認することを決断しました。夫の遺体を見た彼女は泣きだし、しかし「もやもやしていたものが晴れ、すっきりしました」と言ったそうです。それまでは夫の死という事実受け入れることができなかったのです。

女性カウンセラーは人が泣くことについて、興味深い二つの重要なことを書いていました。「おもちゃを失った子供を慰めることはできるが、子供を失った母親を慰めることはできない。できるのは失ったものは取り返せないものであると気付かせることだけである。」もう一つは男性と女性の一般的な違いです。不幸に会い、もし泣いている女性と黙っている男性がいたなら、カウンセラーの仕事の対象は男性の方だと言うのです。

現実を受け入れることは解決のための第一歩であり、泣くことは本当の慰めのための第一歩です。約20年以上前に起きた北海道でのトンネル事故の報道を思い出しました。約2万トンの岩盤が、ちょうど通りかかったバスとワゴン車を直撃し完全に埋もれてしまいました。バスの乗客とワゴン車の運転手20名全員の死亡が確認さるのに1週間以上かかりましたが、その間、どのテレビ局のアナウンサーも生存を期待しているかのような報道をしていたのを記憶しています。しかしそのような報道によって期待を与えることは、非常に日本人的であり、家族にとっては現実に直面したときかえって失望を大きくしたのではないかと、私は感じたのです。

今日は飛行機事故や交通事故の話をしようとしているわけではありませんが、事実を受け入れ悲しむことは慰めの第一歩であるということに関しては、今日のメッセージと共通しているように思います。子供を失った母親を慰めることはできませんが、それを事実として受け入れることが時間はかかっても慰めと回復へとつながっていきます。


人間にとって最も難しく、最も重要なのは、自分の事実を受け入れることです。宗教改革者カルヴァンの「人間にとって最も苦しい知識は自分に関する知識である」という言葉は正しいと思います。

このメッセージは、キリスト教入門シリーズの続きです。しかし入門の最初のメッセージではありません。これまでの続きであり、これまで述べてきたように自我に支配されている自分に気が付かなければ、このメッセージを理解することはできません。自分に失望している人に対する一般的な対応は、「みんなそうだから、そんなに深刻に考えない方がいいよ」というような励ましであるかもしれません。

しかしそれは人を慰めいやすための聖書の方法ではありません。まずしっかりと自分のありのままの姿を見つめる。良い医師が患者を診るときの態度と同じです。そして次に、神がそのような私たちのためしてくださったことをそのまま受け入れる。これが聖書の方法であり、聖書の順序です。「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書 3:16)。