星に導かれて

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、もつ薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 マタイ福音書 2:7~12


領収書の祈り

ベストセラー作家でもあるカトリックの渡辺和子さんの本に、「領収書の祈り」というタイトルのエッセイがありました。私たちの祈りの多くは、「これをしてください、あれをしてください」という請求書の祈りではないか、「神さまからの恵みを受け取りました。ありがとうございます」という領収書の祈りをしていますかというのです。

今日はクリスマス礼拝ですが、1年の最後から二番目の日曜礼拝でもあります。救い主の誕生と同時に、この1年にあった様々な出来事、様々な人との出会いを思い起こすでしょう。そしてそれは、必ずしもうれしい出来事、喜ばしい出会いではなかったかもしれません。そこで神さまに、「今年も、もうすぐ終わろうとしているのに、プレゼントはまだですか」と督促状の祈りをしているかもしれません。


近くの人と遠くの人

2000年前、神が人類に与えてくださったクリスマス・プレゼントの受け取り方も様々でした。人間の赤ちゃんになった神の子のことです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書 3:16)。

遠くの人々がこの救い主を見出し、近くの人々は見逃しました。条件が良いか悪いかでは人生は決まらないという、最も深刻で最も顕著な歴史の実例の一つです。救い主を見逃した人々は、ヘロデ王、祭司長や律法学者たち、そしてエルサレムのほとんどの人々です。彼らは救い主が誕生した馬小屋のあるベツレヘムから、徒歩でも行ける好条件のところにいたのです。距離的に近いというだけではありません。ユダヤ民族には、聖書を通して他の民族よりもはるかにはやくから神の救いの計画が示されていました。現にヘロデ王に召集された祭司長や律法学者たちは、客人を待合室で待たせている少しの間に、救い主の誕生の地がベツレヘムであることをつきとめることができました。

東方の博士たちは、星以外にはほとんど何の情報もないまま、砂漠を越えてはるばるとエルサレムの宮殿にやってきました。地理的な条件が悪いというだけでなく、救い主と神の救いの計画については何も知らされていない異邦人であり、霊的な距離ははるかに遠かったのです。しかし最初の者が最後になり、最後の者が最初になるということが、最初のクリスマスに起こりました。王も学者も宗教家もプレゼントをもらいそこね、東方の博士たちは救い主に巡り合えました。これは何も大昔の話ではなく、今年のクリスマスも全く同じことがどこでも起こっているのです。


占星術の学者たち

救い主を見出した最初の人々はベツレヘムの羊飼い、その次が今日の説教の主役であり、「占星術の学者」とも「東方の博士」とも言われる人たちでした。ギリシャ語は「マゴス」であり、英語の「マジック」のもとになった言葉ですから、「占星術」のほうが近いかもしれませんが、この説教では伝統的に「博士」と呼んでおきます。絵本や聖書物語では通常3人の博士が描かれ、それぞれに名前までつけられているのですが、3人であったと聖書に書かれているわけではありません。「マゴス」が複数形であること、幼子へのプレゼントが、黄金、乳香、もつ薬の三つであったために、3人ということになったようです。


博士と一緒にベツレヘムへ

博士が3人かどうかはそれほど重要ではありませんが、彼らのベツレヘム旅行を三つの部分に分けて、私たちはもっと重要ないくつかのことを考えたいと思います。東方の博士たちの物語は歴史の中で一度かぎりの特別の出来事です。しかし多くの人々が救い主を見失ったことも、ごくわずかな人々が救い主を発見したことも、またとくにその理由と経過は、2000年後の現代も全く変っていないように思えるのです。クリスマス物語はその意味でも、遠い昔の遠い国の物語ではありません。ディズニーランドに行けば、宇宙やおとぎの国の冒険をだれでも経験できるように、私たちもヘロデのいるエルサレムと、救い主のおられるベツレヘムへと、東方の博士たちとともに旅にでかけましょう。「星に導かれた博士たちの物語」です。


ヘロデの宮殿まで

博士たちは東の国で不思議な星を発見しました。彼らの研究によれば、星はどうも新しい王が生まれた印らしいのです。彼らは自分たちの発見が正しいかどうかを確かめたいと思いました。ラクダに乗り、砂漠を超えて、新しい王への贈り物をたずさえて、新しい王発見への旅が始まりました。

神が羊飼いを天使によって馬小屋に導かれたように、神は星によって博士たちを救い主のもとに導かれました。しかし博士たちのラクダ・タクシーは、ベツレヘムの馬小屋への直行便ではありませんでした。不思議な星に導かれてエルサレムに到着した博士たちが、最初に訪れたのはヘロデの宮殿です。新しい王、すなわち王子は、通常宮殿に生まれるからです。しかし、驚きました。宮殿には王子が誕生したという事実はありませんでした。またエルサレムの町にもそのような気配さえありません。ベツレヘムの人々は、誰も何も知らないではありませんか。彼らは何と失望したことでしょうか。聖地は道端や石地に落ちた御言葉の種のようでした。


エルサレムからベツレヘムへ

羊飼いは幼子のいる馬小屋へ直行し、博士たちはヘロデの宮殿へ寄り道をしました。神は人の熱心な求めを用いられます。人間の自然の思いを用いそれを導かれるのが神の普通のやり方です。彼らは最初、自分の科学や占いの正しさを確かめるため出かけたのでしょう。ヘロデの宮殿を訪ねるまでは、さらなる導きは与えられませんでした。神は普通一段階ずつ導かれるからです。

しかし、ヘロデの宮殿での様子を見て、彼らのこれまでの考えがさえぎられ、そして別の思いが与えられました。星が示したこの方は宮殿に住みピカピカの着物を着た普通の王ではない、普通の方法では知ることのできない王なのだと。

そのような思いでもう一度あの星を見たとき、その星は博士たちにとって別の意味を持ち始めていました。実は彼らの内側が変わり始めたのです。星に導かれてさらに進みました。そして星が、目的の場所に着いたことを知らせました。いや、神の言葉が知らせたと言うべきでしょう。「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」と記されていますが、進んだのも止まったのも、博士たちではないでしょうか。私たちが進むとき月や星は進み、私たちが止まるときも月や星は止まるでしょう。そもそも星がどの家の上で止まったのかどうして分かるでしょうか。神は星だけでなく博士たちの心も導いておられたのです。そして、幼子はこの家にいると確信したのです。そのときは、もはや自分たちの研究や占いを信じていたのではなく、神の導きを信じるようになっていました。


幼子の家で

博士たちは家の中に入りました。家の中にいたのは、貧しい身なりをした母マリアとヨセフ、そして幼子の救い主です。幼子は博士たちが最初に考えていた姿とは全く違っていたはずです。金ぴかのベビーベッドでも絹のベビー服ではありません。しかし彼らは「なーんだ」と幼子の貧しい姿につまずくことなく、ひれ伏して拝みました。その中に真の王の姿を見たのです。富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた王を見たのです。貧しい姿の中に、栄光を見たのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書 1・14)。

普通のし方では知られない、信仰によってのみ知られる王です。彼らはヘロデ王に対してはしなかった礼拝を、このお方にささげました。自分自身をささげた印として、国から携えた黄金、乳香、もつ薬をささげました。神からの贈り物に比べるなら、彼らの贈り物はまことに小さいものですが、貧しいマリアとヨセフにとってはありがたい献金になったに違いがありません。


あなたの星は?

星に導かれた東方の博士たち、ロマンチックでクリスマスにふさわしい物語ではありませんか。私は約20数年の牧師としての経験から、神はこのように人を導かれるのだと信じています。博士たちがベツレヘムの幼子キリストを礼拝する物語は、歴史の中で1回限りの出来事にちがいがありません。しかしキリストとの出会いは、いつもこのようにして起こっているのではないでしょうか。神の導きと博士たちの行動の、どちらが欠けても、博士たちはキリストにお会いすることはなかったでしょう。事実、エルサレムの人々はだれもこのお方を知ることがなかったのです。

「ベンハー」という有名な映画の最初のシーンでは、星が飛行機のように馬小屋の上空まで飛んで行き、その真上まで来たとき、星からサーチライトのような光が出て馬小屋を明るく照らしました。ロマンチックな映像は楽しいものでしたが、もしそうだとすれば他にも多くの人々が星と星から出る光を目撃し、何事かと馬小屋にかけつけたにちがいがありません。もしいまであれば、馬小屋の前にはBBCやNHKなど各国の放送局からのカメラマンが群がり、衛生放送で全世界へメシア誕生のニュースが報道されたことでしょう。しかし事実は、東方の博士たちの他には、だれも星に気がつかず導かれることはなかったのです。

その星が特別の星であったのかどうかは様々な説があり、どれが正しいのか私には分かりません。しかし神は博士たちの心を導いておられたことだけは確かです。博士たちが進んだとき星が進み、博士たちが止まったとき星も止まりました。そしてついに幼子のいる家まで導かれたのです。


途中で帰る機会

神はいま、あなたをも導いておられるのを感じますか。ある人々は途中まで導かれて、救い主にお会いする前に引き返してしまいます。東方の博士たちもそうする機会が少なくとも3度ありました。最初は自分の国で星を発見したときです。「めんどくさいなあ」と思えばそれで終わりです。「そのうちに」もほとんど同じ結果がでます。何もすばらしいことが始まることはありません。道端に落ちた御言葉の種です。マタイ福音書の2章は全部削除され、私も今日は別の説教をしていることになります。次の機会は、ヘロデの宮殿で何も起こっていないことが分かったときです。計算間違いだと失望して帰ることもできました。最初は喜んで芽を出した石地に落ちた種です。第三の機会は、幼子の貧しさを見たときです。「こんな王ではないはずだ、時間を無駄にした」と引き返すのがむしろ普通でした。しかし博士たちはどの機会も途中で帰る機会とはしなかったのです。


従順

人生は旅など様々なものにたとえられますが、経験や出会いということからはジグソー・パズルにたとえられるかもしれません。この礼拝堂には、まだ10年も生きていない子供たちも、80年以上も生きてこられた方もいらっしゃいます。ジグソー・パズルには2000ピース以上の上級者用から、30ピースしかない子供用まで、様々なレベルのものがあります。小さな子供は、まだ人との出会いもうれしい経験も悲しい経験も少しですが、お年寄りは多くの出会いと多くの経験をすでに通ってきています。

子供は組み合わせるピースが少ないため、それを組み合わせて全体の絵や写真が何であるかを見るのは難しくありません。しかし人生が長いほど組み合わせるピースが多くなり、全体像が分かりにくくなるのが普通です。人の心にはプラスとマイナスの断片がたくさんたくわえられているはずです。

感動した経験、その他の経験、教会で聞いた話し、本で読んだこと、聖書の教え。ある人はマイナスの方が多いかも知れません。しかし断片をたくさんたくわえることは有益であっても、それだけでは全体として何の絵であるのかはまだ分かりません。美しい断片も、何か分からない断片も組み合わせなければならないからです。

車で通勤をしていて、横断歩道の歩行者のためにほんのちょっと車を止めることすら簡単でないことを感じます。ブレーキをちょっとだけ踏み、他の人のためにたった10秒を犠牲にする心の余裕さえありません。人生の中でちょっとでも立ち止まって、このままでよいのかと考えるのはもっと難しいのです。

これまで教会に来られた多くの人々は、救い主誕生のニュースを、美しい布の断片として心のどこかにしまっておられるのでしょう。しかし断片がバラバラのままで、神の救いの計画が見えてこないとしたら誠に残念です。

新しい王の誕生を告げる星を見つけました。そこで旅に出ました。困難な旅が予想されましたが決心してでかけました。ヘロデの宮殿に着きました。でも王子の誕生をだれも知らないので驚きました。これは普通の王ではないぞと考えました。さらに星に導かれて旅を続けました。星は博士たちをメシアのもとに導きました。幼子はみすぼらしい姿をしていました。博士はメシアを礼拝しました。贈り物をささげました。

このような小さな断片が博士たちの「信仰」によって全部つなげられ、美しいクリスマス物語パッチ・ワークとして2000年間クリスマス説教のテキストとなってきたのです。これまで生きてきた様々な断片をつなげてみて、神があなたの人生のために準備された美しい作品をこのクリスマスに見てみませんか。

自分の足で確かめられるのに、そこに行かなかった者には何も与えられることはありませんでした。あなたは星にどこまで導かれましたか。そこからが大切です。最初から旅に出ないことも、救い主に会わずに、どこからでも帰ることができるのです。砂漠の途中からでも、ヘロデの宮殿からでも、救い主の家の前からでも、救い主の顔と姿を見てからでも。東方の博士たちはどこからも引き返さず、幼子を礼拝して帰っていきました。