インマヌエル

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。この子は自分の民を罪から救うからである。」このことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 マタイ福音書 1:18~24


これまでイエス・キリストの系図からいくつかのことを考えてきましたが、ヨセフやマリアの登場するクリスマス・ストーリを始める前に、系図が語っているもう一つの重要なメッセージを付け加えておきましょう。それは系図の裏にかくされており、文字では直接は語られていません。つまり消極的に言えば系図は失敗の連続の歴史の記録であり、積極的に言えば系図は真の救い主と真の王を待ち望まなければならないことを告げるメッセージであるのです。ある人の経歴は華々しいものであるかもしれませんが、人生全体でみれば必ずしもそうではないことが少なくありません。重要なことは、ある時期の栄光や繁栄ではなく、全体として人生を勝利することではないでしょうか。

しかし新約聖書の初めにある救い主の系図は、もし最後の名前を抜かして読むなら全体としては失敗の歴史と言わなければなりません。最後の名とはもちろんイエスです。確かにアブラハムは立派な指導者であり、ダビデはイスラエル最高の王となりました。しかし、彼らも完全な人間ではなく、その支配も完全ではありませんでした。美しい女性との不倫をかくすために、ダビデはその夫を戦場の最前線で戦わせ戦死させるといういまわしい罪を犯しました。系図の中にある多くの名は、自分の栄光のために神を悲しませ神の民を苦しめた王の名です。真の王と真の救い主を、人々はなおも待ち望まなければならない、と系図は大声で叫んでいるように私には思えます。

エジプト、バビロン、アッシリア、ローマ帝国、大英帝国、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、日本、中国。すでに滅びたか、これから衰えるかもしれない大帝国の名です。シーザーもナポレオンもレーニンも成功者であり失敗者であったのです。世界の系図も不完全であり、どんな帝国も英雄も人類に永続する平和と真の幸福をもたらすことなしに、歴史の中に現れては消えていきました。世界の系図である大帝国の歴史と英雄の歴史も、成功と失敗の記録です。強い国家と強い指導者は、繁栄と同時に多くの戦いと大きな苦しみを国民にもたらしたのです。

あなたはどんな救い主を求めてこられたでしょうか。自分自身の救い主の系図を頭の中に描いてみてください。良い学校、良い成績、良い就職、良い収入、良い結婚、良い子供、良い老後。あなたが求めてきた救い主は、あなたの魂に平安と満足を与えてくれたでしょうか。これもまた成功と失敗の入り交じった、不完全な系図であると認めなければならないのでしょう。

旧約聖書の最後の書であるマラキ書から約400年。4世紀の沈黙の後に、神は再び語りはじめました。不完全な系図の後に、完全な救い主の誕生が告げられます。救い主の誕生物語は、旧約の失敗の歴史の続きであり、もし系図の最後の救い主の名を除外して読むなら、私たちが心に描いてきた救い主の単なる失敗の系図となるのです。人生は全体としては敗北であると言わなければなりません。


妻マリア

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」マタイはヨセフの視点から救い主の誕生物語を記しています。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ福音書 1:29)とマリアの心を記すルカとは対照的です。ルカ福音書の系図はヨセフから始まり時間をさかのぼりアダムで終わるのに対して、マタイの系図は逆にアブラハムから始まりヨセフで終わっています。そのためヨセフの視点から救い主の誕生物語を始めるのです。ヨセフがどんな人物で、何を思い、何をし、何をしなかったかがマタイ福音書のクリスマス物語の最初に記されています。

この箇所を正しく理解するためには、当時のユダヤの結婚に関する最低限の知識が必要です。親が子供の結婚相手を決める。適当な年齢になったとき、二人は婚約する。約1年後に実際の結婚生活に入る。結婚は通常このような三段階ですすめられました。我々の知っている婚約ではないという点に、とくに注意を払わなければなりません。婚約は法的にはすでに正式の夫婦であり、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」はその意味です。約1年後、実際の結婚生活に入る前、一週間もかかる結婚式がおこなわれました。マリアと婚約中のヨセフは、大きくなってくる彼女のお腹を見て悩みました。ヨセフには二つの選択がありました。第一は、公表して離婚する。その場合、マリアは律法に従って石打ちの刑にされる可能性がありました(申命記 22:22~24)。マリアを愛するヨセフは、離縁状を渡して密かに別れるという別の方法を心の中で決めていました。しかしマリアは浮気をしたのではなく、聖霊によって赤ちゃんを身ごもったのです。なぜマリアは夫ヨセフにそのことを告げなかったのでしょうか。おそらく、あまりにも不思議なことであり信じてもらえないと思ったからなのでしょうか。


ヨセフの考えが実行される前に神は介入し、夢の中で天使がヨセフに語りました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」天使はマリアには、彼女が起きている時あらわれました。ヨセフの場合は夢の中で天使が語りました。ですから目覚めたときに「何だ夢だったのか」と言うこともできました。

しかし、ヨセフは天使の言葉を受け入れました。信仰によってヨセフは、マリアとまだ生まれていない子を自分の家に受け入れたのです。「その子をイエスと名付けた」という短い文章の主語はもちろんヨセフです。名前をつけることによって、ヨセフは公に子を受け入れたことをあらわしたのです。このようにしてヨセフとマリアは、神の400年の沈黙の後にイスラエルの中で最初に約束の救い主を認める者となりました。救い主の肉的な父親ではなくとも、ヨセフは信仰によって幼子を我が子として腕に抱いたのです。ヨセフはここに至るのに、多くの苦しみを通ってきたことでしょう。寝られない夜が続いたのでしょう。新しい神の恵みが示されるときには、新しい試みと苦しみがともなうものです。キリストが私たちの心にお生まれになるときも同じです。

イエス・キリストの福音は、私たちの人生に介入します。そのため多くの人は、せっかく提供された福音を受け取ることを止めてしまいました。何も止めないで受け取る祝福なら、私たちはそれを喜んで受け取るでしょう。思いがけないボーナスを「いらない」と言って断る人はありません。しかしこれまで歩んできた人生や考え方を大幅に変更しなければならないなとき、それを受け取る人は大幅に減少するのです。しかしヨセフは信仰によってそれを受け入れました。


聖霊によって宿った

「救い主は聖霊によって宿った」と天使は伝えました。いわゆる処女降誕です。そうでなければ、マリアは大変な罪をおかしたことになります。救い主イエス・キリストは母の罪の結果生まれたことになってしまいます。

科学に大きな敬意を払う現代人を失うことがないようにと、19世紀以降の多くの教会が合理的な解釈を試みてきました。しかし皮肉なことに、そのようにして処女降誕の奇跡を否定した多くの教会の礼拝はがらがらになっていきました。聖書から奇跡を取り除くなら、聖書はもっと多くの人が受け入れられる書物になるかもしれません。しかし同時に、聖書は無数にある単なる偉人伝の一つになりさがってしまうのです。わざわざ日曜日の午前中をつぶして礼拝に出席し、聖書の話を聞く必要はまったくありません。

実は通常の出産でさえ、十分に奇跡的ではありませんか。あまりにもしばしば経験しているためそのように思わないだけです。ほとんど何もないようなところから、たったの10ヵ月で心臓も血管も目も鼻も口もちゃんと備えたかわいい赤ちゃんが誕生するのです。しかし神は、歴史の中で一度だけ、通常でない仕方で赤ちゃんの誕生を実行されたのです。全世界の救い主の誕生ですからむしろ当然ではないでしょうか。

罪の支配からの救い主は、聖書が語っているように、処女降誕でなければならなかったからです。アダムの罪を受けつぐことのない、罪のない救い主でなければならなかったのです。そうでなければ、キリストも自分自身の罪のために十字架にかかったことになってしまいます。マタイはこの出来事がどこで起こったのかは記していません(ルカはナザレと報告しています)。マタイは救い主が身ごもった場所よりも、身ごもった方法を伝えたかったのでしょう。救い主の誕生に関して聖書が本当のことを語っているのかどうかを証言できるのは、人類の中でただ一人の女性だけです。ヨセフでさえ、証拠によってではなく信仰によって受け入れたのです。

キリストはその身ごもりが奇跡であったこと以外は、その他のすべての人類と同じ、すなわち私やあなたと同じ過程を経て生まれました。肉に関してはマリアの子であり、私たちと同じ人間になられたのです。同じ人間でなければ、私たちの罪を身代わりとして罰を受けることができないからです。

アダムは人類の代表として罪をおかし、そのためすべての人が罪びととなりました。しかしキリストは私たちの罪を背負い、私たちの代表として十字架で罪の罰を受けてくださいました。日本人でなければ日本の代表としてオリンピックに参加し日の丸を挙げることができないように、同じ人間でなければ私たちの代表として罪の罰を受けることはできません。

そして処女降誕の奇跡を受け入れる信仰は、神学的な議論からではなく、十字架の刑罰が私たちのためであったという信仰からだけ生まれるのです。ヨセフと同じように、信仰によってこの驚くべき奇跡を受け入れることができるでしょうか。


イエスと名付けなさい

普通は親が生まれた子供の名前をつけるものです。しかしキリストの場合はちがっていました。最初から名前が決まっていたからです。天使はヨセフに言いました。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。」子供の名前だけでなく、その働きも、その生涯も最初から決まっていたのです。命名に関して天使の説明が次に続きます。「この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」とは、「救い」という意味です。苦しみや困難から救うという場合に用いられることばです。この場合は、罪からの救い主であると限定がついています。言い換えれば、「イエス」という名は、私たちは堕落している、私たちは救いを必要としている、という宣言と同じです。罪こそが私たちを奴隷にして、私たちを不幸にする根本原因であったのです。あれがない、これがない、あれさえあれば、と思っていました。あんなことが起こった、こんなことが起こった、あれさえなければと思っていました。でも私たちを本当に不幸にしていた原因は、私たちの外側ではなく内側にありました。

イエスという名の刻まれたコインの裏側には、私たち自身の罪の名が刻まれているのです。このお方に救いを求める者は幸いです。「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになるのです」(ヘブライ人への手紙 7:25)。あなたの救い主は何だったのでしょうか。それはあなたを約束の地に導き入れたでしょうか。それともあなたを途中まで導き、そのためあなたは別の救い主を追い求めなければならなかったでしょうか。次の角を曲がったら幸福があると思い、来年になったらと思って、今も同じように続いているのでしょうか。

インマヌエルと呼ばれる

救い主の誕生は偶然ではありません。系図は驚くべき長い準備の時間があったことを語っています。マタイはさらにイザヤの預言を引用し、救い主の誕生は預言の成就であると告げます。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ書 7:14)。「神はわれわれと共におられる」という意味です。マタイ福音書は、インマヌエルで始まりインマヌエルで終わっています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書 28:20)。

旧約の民は契約の代表者、民の指導者、犠牲をささげる儀式や祭司をとおして神と交わりました。間接的で距離があります。しかし、新約の民であるクリスチャンにとっては、キリストにあって神が私のところに来てくださったのです。キリストを持っていることは、神を持っているのと同じです。遠い神、よく分からない神ではなく、赤ちゃんになって天から地に下りてくださった具体的な神です。頭の中の救い主、哲学的な救い主、夢のなかの救い主ではありません。

このお方によって、神との平和がもたらされます。アダムの罪によって神と人に永遠の距離ができてしまいました。しかし、インマヌエルと呼ばれる救い主によって、神と人はもう一度近い者とされるのです。腕に抱けるほど救いが具体的になったからです。


結論

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書 1:14)。神の子が私たちと共に住むために天から地に下って来てくださいました。それは私たちが神と共に住むためです。神の子がマリアから生まれ、人となってくださいました。それは、人の子である私たちが、神の子と呼ばれるためです。

この方だけが、神と人とを結び合わせることができます。「そして、その子をイエスと名付けた」という短い文章には主語がついていません。主語にあなたの名を置いてみてください。そして幼子を救い主として、信仰によってあなたの腕の中に抱いてください。人間の約束や希望はしばしば流れてしまいます。しかし、神の約束は決して流産することがないのです。 マタイ福音書の最初にある系図は、人間の罪と弱さと失敗の歴史です。しかしそのすぐあとには、約束された救い主の誕生が記されているのです。人間が自分に絶望したときから神の救いの働きが始まります。自分自身に失望するなら、あなたには大いに希望があるのです。