飼い主のいない羊

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 マタイ福音書 9:35~38


世界中の多くの宗教は、病気が治ること、その他の様々な災い困難が自分を避けて通ってくれることを目玉商品にしています。「キリスト教はそうではない」と言いたくなるのですが、キリストも様々な病気や障害をいやされたことが聖書には多く記されています。

シリアなど中東の国々から難民がヨーロッパに押し寄せてくる様子が、連日のようにニュースで報道されています。この聖書の場面をイメージするのに、少し役に立つかもしれません。

難民たちが押し寄せるように、傷つき弱り果てた人々が、キリストに向かって押し寄せてきている情景を想像してください。頭のてっぺんから足の先までできもので覆われた者、不治の病のため社会から見放された者。召使いの病気の回復を願う百人隊長。悪霊につかれてあばれ回る乱暴者。ベッドに寝たまま友に運ばれてきた中風の人。嫌われる職業のゆえに仲間はずれにされ差別されている者。娘を失った父親。目の見えない者、口の利けない者。彼らはキリストのもとに来て病気がいやされ、目が見えるようになり、歩けない者が歩いて帰っていきました。


弱りはて、打ちひしがれている

しかしキリストは、それで「めでたし、めでたし」と言われたのではありません。大勢の病人がいやされた後も、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と言っているのです。問題はまだ解決していません。

「弱り果て、打ちひしがれている」は、他の聖書の翻訳(英語聖書も参照)と比べるとき、もう少しはっきり実感できるでしょう。「弱り果て、倒れている」、「迷い、かつ気落ちしていた」、「当惑し、動けない」、「疲れきって、動けない」、「激しい苦痛に投げ倒され」、「当惑し、がっかりしている」。飼い主からはぐれた羊が、歩きつかれて倒れてしまった、獰猛な動物にかまれたりいばらで傷ついて動けなくなり助けもない、といったどれも悲惨なイメージです。

旧約聖書ではイスラエルの民がしばしば「飼い主のない羊」にたとえられています(民数記 27:17、列王記上 22:17)。羊は弱い動物であり、迷い出した羊は犬のように自分で飼い主のもとに帰ることが出来ません。かえって、危険な森の奥深くに入り崖から転落したり、獰猛な狼の犠牲になってしまうのです。

2000年前のユダヤの荒れ果てた情景は、他でもない現代社会と重なっているように思えます。現代は医学が進歩し、様々な難病が治るようになりました。しかし現代人はやはり疲れ果て、倒れそうになっているのではないでしょうか。助けを求めることも知らないほど、何かに追い詰められているようにさえ思えます。病気によって倒れた者があるでしょう。精神的に倒れた者もあるでしょう。しかし原因が何であれ本当の原因はもっと内側の心にあるように思えます。現代の私たちを追い詰め、ついには疲れ果てさせ倒してしまうのは何でしょうか。飼い主からはぐれ行くべき方向が分からなくなってしまいました。仲間の羊からもはなれ一人ポッチで孤独になってしまいました。

ラジオのニュースを聞きながら昼の弁当を教会で食べ、ニュースが終わってそのままにしておくと歌謡曲が聞こえてきました。60才ぐらい以上の男性の気持ちをたぶん歌っているのでしょう。「笑いとばして生きていこう」、「振り向けばつらいことばかり」と歌っていました。全部ではありませんが、演歌のほとんどは暗く悲しく、「可哀想な私」と同情を求めているように思えます。多くの男性たちの気持ちを代弁しているのでしょう。多くの人々に囲まれて東京で生きていても、孤独な人々は少なくありません。


ファッション

男性だけでなく女性も苦労が少なくありません。男性の視点からは、幼いときから女性の価値を決定するのは、外形の美しさです。デパートの最も重要な売場である一階から三階までは、女性が美しく見えるための商品が置かれています。西洋も一昔前は(実は今も)男性中心社会であり、男性の興味や目的を中心に社会が動いていました。ファッションも例外ではありませんでした。その女性の1メートル以内には近づけないような、すそが大きく広がった優雅なスカートは、夫である男性の身分の高さを象徴するのが目的であったといわれます。そんなスカートをはいていては労働ができませんので、夫は妻を働かせる必要のない身分であることが誰の目にも分かったというのです。女性は男性の目に美しく見えるようにコルセットで体を締め上げ、肝臓が二つに切れてしまうこともあったようです。いま大部分の女性はそのような窮屈な服装からは解放されているのですが、現代の女性の多くも、別の新しいコルセットで自分を締め付けているのではないでしょうか。

医学的には日本の若い女性のほとんどは、どちらかというとやせている範囲に入るそうです。しかし若い女性の大部分は、自分はふとり過ぎていると思ってダイエットをしているらしいのです。極端な場合は拒食症になるのですが、そこまでいかなくても貧血や栄養障害の若い女性は少なくないようです。彼女たちは男性の美の感覚に合わせようとして、自ら見えないコルセットで締め付けているのです。ある人々が勝手につくりあげた価値観に、なんと簡単に現代人は振り回されて疲れていることでしょうか。

リカちゃん人形はアメリカの女の子の間でも人気があるようですが、全くあり得ない抜群のスタイルによって女の子の内にコンプレックスが植え付けられるというので、反対運動をしているグループもあるそうです。いつまでたっても到達しない架空のスタイルに比べて、何と普通の女の子は理想からかけはなれているように感じるでしょうか。数年前には電車の中でも人目を全く気にしないで化粧にふける若い女性のことが、新聞でよく取り上げられていました。男性も女性もみんな、他の人からどう見えるかを気にしながらエネルギーとお金を消耗しているのです。


カウンセラー

「うつ病は風邪をひいたようなものです」とよく言われます。だから、風邪をひいて熱があるときは安静が第一であるように、やりたくないことはしないで静かにしていなさいというでしょう。しかし、やりたくないことがなくなるような環境と状況が、世の中には果たしてあるのでしょうか。そのようなアドバイスに従って、一時的に楽になっても、次の困難が内から外からやってきたときにはもう立ちあがろうとも思わなくなっているかもしれません。

一時的に休息が必要なことは確かにあるでしょう。しかし現代の心理学は、聖書の中心的な教理である人間の罪を勘定に入れていないのです。そして単なる病気や体質としてとらえようとしています。ですからアレルギー体質の人が花粉に反応するのに道徳的な責任はないように、精神的な病気にも何の責任もないのです。

このように言っても、精神的に落ち込んでいる人がそうでない人より罪深いと言おうとしているのではありません。そのような極端な考えを避けながらも、そこには罪の影響がどこかにあることを見逃してはなりません。心の病を持つ者の心にもそうでない者の心にも、あらゆる領域に罪は入り込み影響を与えているからです。

このように言うことによって、心が病んでいる心をさらに鞭打つつもりは毛頭ありません。むしろその逆であるのです。心の病が罪の影響を受けているとすれば、自分を落ち込ませている自分の罪に気づくことによって、心の病を克服することができる、と申し上げたいのです。つまりうつ病が治る確かな希望があるのです。しかし心の病を単なる病気と理解すれば、治るかどうかは分かりません。他の病気と同じように、回復するかどうかはその人の手のうちにはなく、薬が効くかどうかだけにかかっているからです。


物質文明

産業革命からはじまった大量生産は、人々の消費意欲を大いにかりたて、次々と生産し次々と消費する時代になっていきました。品質は年々よくなり、新しい製品はすぐに過去のものとなります。最も象徴的なのは日ごとに進歩するデジタル機器であり、新型は半年で旧型になり、満足も半年で終了します。

テレビのスイッチを入れれば、コマーシャルが、次から次へと、これを買えば、あれを買えばあなたは幸せになると言ってきます。○○歯磨きで磨いた歯がダイヤモンドのようにキラキラ光っています。△△口紅をぬれば、ピンクの花びらの花吹雪で男性が振り向きます、この栄養剤を服用すれば、このコーラを飲めば、この車に買い換えれば、この掃除機に取り替えれば、あなたはすぐに幸福になると約束しています。

しかし3年前にこれを買えば幸せになると言われて買ったばかりなのに、3年後のコマーシャルは、それでは幸せになるにはもう古すぎると言っています。物の砂漠で渇きを求めてたどりついたらそれは蜃気楼であったようなものです。それを果てしなく繰り返し、私たちはどこまでいっても、約束の幸せを手に入れることができないで疲れ果てているのです。物の大量生産は欠乏感も大量生産してしまいました。


情報

情報があふれています。大量の情報も人を疲れさせる原因です。大量生産される最新の情報はすぐに古くなるので、常に大量の新しい情報を追いかけなければ、仲間に遅れてしまうとあせってしまいます。今日の新聞は明日の古新聞です。いやもう新聞自体が古いのかも知れません。新聞が届くまえに、スマホやパソコンで情報を知り、すでに知っているニュースばかりです。

若者たちはメールのやりとりに短い人生の大きな時間を使います。新しい情報、早い情報、遠くの情報がすぐ画面に映し出される技術には驚嘆させられますが、新しい情報、早い情報、遠くの情報は必ずしも価値ある情報ではありません。

少しまえまでは、私はFM放送から古典的なカセットテープに音楽を録音して聞いていましたが、その後の天気予報も録音されていることもあります。それが1年ほど前の録音であることに気がつかないで、5月にも東京で雪が降るのかと真面目に驚いたこともありました。しかしどんなに多くの情報があっても、どんなに新しい情報であっても、1年前の天気予報のように、後になればほとんど意味のない情報がほとんどです。それを追いかけて現代人は疲れ果てているのです。一つでも乗り遅れたら大変と、その時は思ってしまうからです。

私の趣味の一つは、古本屋で100円の新書(講談社新書、岩波新書、ちくま新書、など)を買ってくることですが、学者が10年もかけて考えたことが小さな本にまとめられているだけあって、大変な重みと内容を感じることが少なくありません。教会は約2000年前の情報をいまでも伝えているのです。いまでも価値が全く変らないと信じているからです。


自由主義神学

自由主義神学者は多くの神の羊を迷わせてしまいました。宗教改革運動はドイツやスイスで始められ、迷える羊たちを大牧者のもとに返しましたが、約300年後、羊たちをキリストから引き離したのもドイツやスイスの神学者たちでした。奇跡、あがない、原罪といった決定的に重要な聖書の教えを神話の世界のものとし、聖書を近代科学の時代に生きる人々が受け入れやすいものとしました。しかし、聖書は受け入れやすいものとなった一方で、受け入れる必要も受け入れる価値もない一つの書物になるという大きな代償を払わなければならなかったのです。

自由主義神学によって信仰をはぎ取られた教会は、いまどちらに行ったらよいのか分かりません。学者によって言うことが違っています。信仰の基準としての聖書を失い多くの教会はさまよっているのです。


深い憐れみ

時は再び2000年前に戻ります。飼い主のない羊のような群集を見て、キリストは「深く」「憐れまれた」と記されています。ギリシャ語では一つの動詞です。「弱り果て、打ちひしがれている」が最も強い言葉であったのと同様に、「深く憐れみ」も極めて強い意味を持った言葉です。この言葉の聖書の用い方は非常の特徴があり、キリスト自身が語るときか、キリストに関して語られるときにだけに用いられているのです。困っている人や悲しんでいる人をかわいそうに思った、というやさしい気持ちを伝えようとしているというより、絶望的な人の魂を救う十字架の働きに関係していると考えるべきです。単なる人間的な同情というより、十字架に向かって歩み始めるキリストの決意が、この言葉の中にも表れているのです。

もしキリストが欲望と欠乏感の中にある現代の日本人を見たなら、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と、2000年前と全く同じ言葉が、キリストの口から出て来たに違いがありません。やぎは羊と姿は似ていますが、自分で自分のことができる動物です。しかし羊は羊飼いがいなければどうしようもない動物であり、迷い出したことも分からずに、狼のいる危険な森に入ってしまうのです。自分が迷っていることも分からないなら、それこそが迷っている最も確かな証拠であり、最も危険な状態です。

羊は最も弱い動物の一つです。しかし羊飼いがいるとき安全です。戦車のように強力な武器を持っていた恐竜たちは滅びました。しかし動物の中で最も弱い羊は今日も生き延びているのです。あなたは敵から自分の身を守るために、するどい牙や爪がほしいと思うかもしれません。しかしあなたに本当に必要なのは、敵を打ちのめす牙や爪ではなく、あなたのために命を投げ出す真の羊飼いであることに気が付いていただきたいのです。