あなたの人生の船長はだれ?

イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄ってお越し、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱しかりになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」 マタイ福音書 8:23~27


リトマス試験紙は酸性とアルカリ性を調べる試験紙ですが、赤くなると酸性、青くなるとアルカリ性です。高校の生物の先生が「お前たちは頭が悪いから、両方覚えようとするから間違う。『酸は赤くなる』とだけ覚えればよろしい」と言われたのを思い出します。アジサイの色も土が酸性かアルカリ性で決まります。ただしリトマス紙とは反対で、土が酸性だと青、アルカリ性だと赤くなります。

試練や困難は、真の信仰と迷信を明確に区別するリトマス試験紙です。迷信は「この宗教を信じるなら、苦しみや悩みが無くなる」などと言って勧誘することでしょう。しかし、火で焼かれ金槌で叩かれて名刀ができるように、試練を通らない人間は、あまり使い物にならないのが常識です。火とハンマーで鍛え上げられていない刀は、いざというときにポキンと折れてしまいます。幸福だけを約束する迷信は、あなたの人生が失敗すること約束しているようなものです。

人は試練や困難に出会い、挫折し傷つきながら成長していくものです。心理学ではそのような過程を「去勢」と呼ぶことがあります。文字通りの「去勢」とは人間や動物の生殖器の一部を取り除いて生殖機能を不能にすることで、犬や猫などペットでは普通に行われています。

「去勢」は心理学では、人に馬鹿にされ傷つけられるなどの経験を通して、自分の力の限界を知り、社会での自分の役割を認識していくことを表しているようです。それが人間としての成長の機会となるのです。小さな男の子は怪獣ごっこで自分がウルトラマンになったように思うのですが、けんかに負けたり傷ついたり、様々な経験を通してそうではないことを知るようになっていきます。しかしテレビゲームなどバーチャルな世界での戦いの経験は、実社会では全く役に立ちません。ゲームや夢の中で勇敢に戦っても、実際の生活では必ずしもそうではありません。キリストの弟子たちは、教会のために最も大きな働きをした偉大な人々です。しかし、その前に多くの試練を通らなければならなかったのです。


自分を知る

成長し強くなるための第一歩は、自分を知ることです。とくに自分の弱さを知ることは強くなるための出発点です。いつも全く同じ生活をしていたのでは、自分を知る機会はなかなかおとずれないのが普通です。イエスと共にガリラヤ湖の向こう岸に行く船に乗り込む決心は、今まで知らなかった自分を知る機会となりました。

とくに、他の人よりすぐれていると思っている点で失敗することは、苦痛ではあっても成長するためには最も有益な経験です。「主よ、助けてください。おぼれそうです」と悲鳴をあげた弟子たちの多くは、ガリラヤの漁師であったと思われます。嵐が突然のように発生することを含めて、漁師であった弟子たちは、この湖を知り尽くしていたはずです。ガリラヤ湖は海面よりも約200メートルも低い地にあり、周りは山に囲まれています。ちょうど上戸(じょうご)のような地形をしており、上戸に液体を注ぐときに渦が出来るように、突然空気の渦が発生し嵐になるのです。彼らの多くはそんな経験を何度も切り抜け、自信があったにちがいがありません。そのような状況の中で漁師たちがあわてふためいているのは、嵐がこれまで経験したことのない激しいものであったことを示しています。プロの漁師が「おぼれそうです」と、大工さんに助けを求めているのはこっけいな景色です。

今まで知らなかった自分の限界を知ったときが、キリストには限界がないことを知り始めるときです。宗教改革者カルヴァンは、神を知ることと人を知ることの関係を論じていますが、神を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは神を知ることである、と言うのです。

「おぼれそうです」という弟子たちの叫びに対して、イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」とお答えになりました。少し冷たく響く言葉ではないでしょうか。嵐の中で眠っていたイエスは起き上がり、風と湖とを叱りつけました。すると、湖は静かになったというのです。弟子たちの驚きの言葉が次に記されています。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。嵐を通して、これまで知らなかった自分とこれまで知らなかったイエスさまを見せられました。私が知っている自分と、私が知っていると思っているキリストは、実は氷山の上の部分だけであるのかもしれない、といつも考えるべきです。


弱さをもった本当の人である方

それほどの嵐にも、イエスは静かに眠っていました。神の子が本物の人となったという証拠の一つです。それほどまでに疲れてしまったのです。覚醒剤の常習者を扱う警察官によれば、薬が切れた状態は、普通の疲れた人の状態とは全く違うという報告をしています。ぞうきんのように床にべったりと横たわるそうです。どんなに体をゆらしても、大声を出しても眠り続けるのだそうです。薬物のため元気な気分になり、体が限度を越えて疲れていることに気がつかないためです。主イエスの場合は、もちろん薬物のためではなく、病人に対する憐れみから自分の疲労が極限を越えていることに気がつかなかったのでしょう。自分のもとに次から次へとつれてこられる病人をいやしたり(マタイ福音書 8:16)、悪霊を追い出したり、文字通り枕するところがなく疲れ果てていたのです。しかし主イエスは、ものすごい嵐にも目をさますことがなかったのに、弟子たちの叫びにはすぐに起き上がりました。


神であり人である方

イエスは本当の人間になられた、ということを今確認したばかりです。しかし、イエスは神であることを止めて人となられたのではありません。神の子でありつつ、同時に人となられたのです。そして、この両面がこの聖書の箇所に示されています。風と波を叱る人などどこにあるでしょうか。しかし、イエスは自分の子供を叱るように風と波を叱って静められたのです。

風と波はだんだんと静かになったとは記されていません。もしそうなら、風と波を叱ったときと、風がおさまるのが偶然であったのかもしれません。しかし、「叱ると」と「すっかり凪になった」との間には、何の文章も言葉もありません。時間がありません。つまり叱ると同時に、風と波が叱られた子供のようにしゅんと静かになったのです。風が静まっても、波はしばらくはおさまらないのが普通です。弟子たちは、このお方が、風だけでなく波にも命令して従わせることのできるお方であることを発見したのです。風と波に対して、まるで人間に対してするように「叱った」というのは、少し不思議な表現です。風と波の背後にある、霊的な人格を主イエスは見ておられたからだと思います。キリストは自然も霊も支配なさるお方であるのです。


弟子たちの成長を期待する方

弟子たちはなぜ、「信仰の薄い者よ」と叱られたのでしょうか。神の子の力をある領域にだけ限定してしまったからです。弟子たちはこれまで、重い皮膚病の患者が直され、他の大勢の病人がいやされ、悪霊が追い出されるのを目撃してきました。しかし、そこで見たことを、今回の出来事にも適用することができませんでした。この方は自然法則をも支配なさるお方であるという原則を、今度の嵐にも当てはめて考えるべきであったのです。イエスは嵐を静めるために風と波を叱り、弟子たちの成長を願うゆえに彼らを叱られたのです。

「イエス様を信じていれば、難しいことは必要がないのでは」という残念な声を、どこの教会でも聞かなければなりません。一つの角度からだけキリストを知っているのはキリストを知らないよりはすぐれているでしょう。しかし、その角度からキリストが見えなくなったら、ボートの中の弟子たちのように「おぼれそうです」とあわてふためくクリスチャンであるのです。飛行機は霧で視界を失っても、レーダーによって安全に着陸できる装置を備えています。私たちはできるだけ多くの角度からキリストを知るように心掛けなければなりません。神学的なイエス、実際の生活の中で私を助けてくださるイエス、人としてのイエス、神の子としてのイエス、創造主としてのイエス、律法の下にあるイエス、等々。聖書を読むとき、この箇所はどの角度からイエスを描いているのかと考える必要があります。

彼らは「信仰がない」と言って叱られたのではありません。「信仰の薄い者よ」と言われたのです。薄い信仰とは、キリストを特定の領域でだけに閉じ込める信仰です。教会の中だけでしょうか。それとも個人的な祈りの時だけでしょうか。それに対して強い信仰とは、あらゆる領域、あらゆる時に、キリストの力と守りを信じることのできる信仰です。


今も生きておられる方

近代神学はキリストを、教会の宗教活動と個人の魂の中だけに閉じ込めてしまいましました。聖書に書かれている奇跡は、宗教的あるいは道徳的なメッセージと伝えるための手段としてしか理解しません。弟子たちは奇跡を見た後、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って驚きました。しかし近代神学は、はじめから奇跡を信じようとはしていないのです。彼らは、人間の理性と自然法則の下に、キリストを置いて理解をしようとしているからです。

この時の弟子たちは、私たちのように完結した聖書は持っていませんでした。私たちはこの聖書によってキリストが神の子であることを、明確に知らされているのです。しかし、旧約聖書までしか与えられていなかったこの時代には、キリストは奇跡の働きによって、ご自分が神の子であることを示されたのです。波は放っておいてもその内に静かになったはずです。キリストはあえて、ご自分が天地の支配者である神であることを、この機会をとらえて示そうとなさったのです。

今日はそれではもう奇跡はいっさい起こらないのでしょうか。これについては私は神ではありませんので断定することはできません。しかし、もっとすごい奇跡は現代でも起こると私は断定することができます。キリストの十字架の力によって憎しみが愛に変えられ、絶望が希望に変えられます。

ハンセン病の療養所の教会での説教を終えて船で高松港に帰る時、私も瀬戸内海の嵐に出会いました。台風の急接近です。高松港に行く船はもう欠航がきまっており、少し近くの庵治港(あじ)に行く船の最終便だけは出ることになりました。教会の指導者である男性は船長に、「この人はうちの教会の牧師先生なんだから、大切にするように」と一言声をかけました。船長は私を甲板の一番上にある特別室に閉じ込めました。200トンの小さな船は、大波の間を木の葉のように舞いました。一番高いところにある特別室は、特別に揺れる特別室でした。嵐はおさまるどころか、だんだんと激しくなる一方です。自然現象の奇跡は起きませんでしたが、その前に療養所の礼拝の中でもっと大きな奇跡を見たように思います。ハンセン病のため、家族からも社会からも見放された人たちが、先程まで大声で神を賛美し感謝をささげていたのです。

これは少し特殊な例であるかも知れませんが、奇跡は私たちの周りでも自分自身の中でも起こっているのです。ただし、昔のように信仰が無くても分かるような仕方ではなく、信仰の目によってしか分からないような仕方で。それだけが今と昔の違いであると思えます。奇跡の質は今も昔も驚くべきものであることには全く違いはありません。大酒飲みがキリストを信じてクリスチャンになりました。これまでの友人は彼をひやかして言いました。「お前はまさか、水がぶどう酒に変わったとか、あんな話を信じているんじゃないだろうね」と。元大酒飲みは答えて言いました。「水がぶどう酒に変わるどころか、うちじゃ、ぶどう酒がパンやたんすや道具に変わったよ」(ウィリアム・バークレー著「マタイ福音書注解」ヨルダン社)。


弟子と嵐

見ず知らずの者同志がインターネットで知り合い、いっしょに自殺するという事件が続いたことがありました。それぞれが何らかの悩みと問題を抱えていたのでしょう。しかしハンセン病の療養所の方々が肉体的、精神的に味わった様々な苦しみのその一つでさえ耐えられないで死んでいく若者たちもあるのです。

人生の嵐の中で、すべてのものの支配者であるキリストを見ることができるでしょうか。人生が安全であるかどうかは、その人の行く先に嵐が起こるかどうかにかかっているのではありません。風の強さや波の高さによるのでもありません。そうではなく、だれがあなたの船の船長であるかによるのです。あなたの人生の船長は誰ですか。あなた自身でしょうか。タイタニック号が沈没した最大の原因は、船長がこの船は大丈夫と信じて疑わなかったことです。アダムとエバが人類の不幸と悲しみの元祖となったのは、神の言葉ではなく自分の判断で生きようとしたことが原因でした。傘を持って出たのに雨が一滴も降らなかった、いらないと思っていたのにずぶ濡れになった。そんなささいな経験からだけでも、自分の判断がどんなにたよりにならないかが明らかでしょう。

「助けてください。おぼれそうです。」私たちもそのように叫びたい時があります。叫んでもイエス様はぐっすりと寝ておられるように感じるかもしれません。しかし、風と波よりも偉い方が、私たちの船の船長であるなら、その航海は最終的に安全であると信じて良いのです。