キリストの系図 人生の第一部と第二部

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 マタイ福音書 1:1


第一部と第二部

星、天使、乙女マリア、馬小屋、東方の博士たち。私たちのよく知っているクリスマスは、エルサレムやベツレヘムで始まるあの物語です。でも本当のクリスマス物語の始まりは、エルサレムでもやベツレヘムの馬小屋でもありません。福音書の最初に記されている、マリアとヨセフ、羊飼いと天使、ヘロデ王と東方の博士たちが登場するあの物語は、実はクリスマス物語の第二部の始まりの部分であるのです。ですから、新約聖書から聖書を読み始める読者は、後半から芝居や映画を見るようなものです。歌舞伎でもオペラでも、第二幕から見たのではストーリが良く分からなくなるのは当然のことです。

では前半である第一部はどこにあるのでしょう。それが旧約聖書であり、旧約聖書の最初の部分と新約聖書の最初の部分は互いに密接に関係があるのです。キリストは事の成り行きで十字架にかけられて死んだのではありません。それは歴史の普通の描き方であることは確かですが、神の計画の中ではその前のストーリーがあるのです。第一部である旧約聖書の最初に起こったある出来事のために、第二部である新約聖書の最初にキリストはベツレヘムの馬小屋でお生まれになったのです。すぐれた映画や小説の、最初は無関係と思える様々な場面が、最後にはすべてが一つにまとまり互いに密接に関係していたことが分かるのに少し似ています。


系図

新約聖書の最初のページの最初の行に記された「系図」という言葉は、新約聖書を理解するキーワードの一つです。「系図」と翻訳された元のギリシャ語「ジェネセオース」には、「系図」の他「誕生」「源」という意味があります。系図はある家系の源を示す表であるのです。

聖書の最初の書「創世記」は、英語ではジェネシス、やはりこの言葉から出ていることは明らかです。創世記は「世界の誕生」、「世界の系図」、「世界の源」を記した書です。旧約聖書も新約聖書も、何かの誕生や何かの起源を記すことからはじまっているのは意味深いことです。新約聖書の場合はもちろん、救い主の誕生から始まります。

旧約聖書の最初の書が「創世記」であり、新約聖書の最初の書であるマタイ福音書は、「新しい創世記」と言うことができるでしょう。そこには、救い主の誕生から始まる、イエス・キリストにある新しい創造が記されているからです。第一部である旧約聖書は人類の罪と失敗の歴史であり、したがって第二部である新約聖書は、人類の罪と失敗に勝利する救い主の誕生から始まっているのです。

ある人の人生の第二部はもうすでに始まっています。そのような人々はクリスチャンと呼ばれています。しかしある人々の人生はまだ第一部の途中であるかも知れません。そしてその第一部で失敗し失望しているかも知れません。しかしたとえ私たちの人生の第一部がぱっとしないと思えても、第二部で勝利することができればよいのです。その反対よりははるかによいのです。スポーツでも人生でも、どんな物語でも、後半の方が重要であるからです。そして第二部を始める最も良い日は、どんな人にとっても「今日」であるのです。


問題

神の子イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で生まれ人となったのは、聖書の前半で起こったすべての人に共通する重大問題を解決するためです。どんな人でもみな問題を感じています。自分自身の生活にも、自分が生きている世界にも問題があると思っています。戦争、内乱、争い、テロ、犯罪、汚職、そのようなことが印刷されていない新聞が入ってくる朝は、約70年の私の人生の中でこれまで一度も無かったと思います。もっと身近な家庭、学校、職場、教会でも、誤解、差別、偏見、争い、駆け引き、競争があります。しかし不思議なことに聖書は、そのような社会的に重要な問題をほとんど扱っているようには思えないのです。

現代的に言えば、たとえば、学校のいじめ、パワハラやマタハラ、ヘイトスピーチ、戦争、内乱、テロ、等など。なぜ聖書はこのような深刻な問題を扱っていないのでしょうか。時代が違うからでしょうか。聖書は教会の中の宗教的な問題だけにしか関心がないからでしょうか。その答えはどちらでもありません。

聖書はそのような深刻な問題を引き起こす、共通の問題を扱っているからです。小学校のクラスのいじめであれ国と国の戦争であれ、すべてはそこに源があるのです。そして人間にとって最大の問題は、その問題が何であるかを知らないことです。聖書が指摘する人間の最大の問題は、いじめ、パワハラ、戦争、テロ、そのうちのどれでもなく、それらの根本にある問題を問題だと思っていないことです。

若い者も、年寄りも、みな何らかの問題を感じています。そのためときには、人生に疲れ失望します。幸福な時も長続きはしません。ずっと続くような永続的な幸福、欠けの無い完全な幸福などないと思えます。自分の中に、自分の周りに、問題を感じています。英語には「油の中にハエ」という表現がありますが、どんな上等の油でも、油のビンの中に死んだハエが一匹浮いていたら油の全部が台なしになるという意味です。羨ましい身分の人でも、よく話を聞いてみると「いや、私はこのままでいい、結構です」と思えるのです。日本の歌謡曲界の最大の歌手、美空ひばりさんは「スターであるかぎり、幸福であるはずはない」という言葉を残しています。ついでに「あすからまた人気がなくなるかもしれないと思うと、犬も飼えない」森進一。(ともに「伝言」永六輔著、岩波新書より)。

三浦綾子さんの「光あるうちに」(岩波文庫)というエッセイ集の「ゼロの恐ろしさ」という章の中で、鎌倉の高級住宅地に住む夫人たちのことが記されていました。何不自由もない、車も2台あり、軽井沢に別荘もある、ろうけつ染めも鎌倉彫りもやった。しかし何か物足りない、何か空しいと感じている婦人たちが多いというのです。どんなに大きな数字でもゼロを掛けるとゼロになるように、ゼロは恐ろしい数字であるのです。

そして多くの人は、「そんなはずない」「私はもっと幸福な人生を歩むはずだ」と感じています。まだ20年も生きていない若者も、80年以上も生きてきたお年寄りも、程度の差はあれ、多くの人はそう思っているのではないでしょうか。人間にとって最大の問題は、不幸の根本的な原因が何であるのかが分からなくなったことです。キリストはそれを解決するために来られたのです。


サイン

もし症状だけを除くことだけに関心のある医者がいたら、それは親切なのではなく最も悪い医者であると言わなければなりません。虫歯が痛めば、鎮痛剤を注射すれば痛みはしばらくの間は消えるでしょう。しかし虫歯はその間にも悪化しているはずです。もし痛みがもっと深刻な病気から来ているなら、根本的な原因を治さなければ今度はもっと恐ろしい痛みに襲われることは確実です。そのときには治療が遅れために、手遅れになっているかも知れません。痛みは警報ランプであり、私たちの体を守るために神が体に組み込んだものの一つです。もし病気になっても、痛みも苦しみもなければ、それは良いことなのでしょうか。骨が折れていても、胃に穴があいていても、虫歯になっても気がつかないで、20才で総入れ歯になり、30才になる前に体は無茶苦茶になっているはずです。

人生の中の苦しい問題や悲しい出来事も同じように考えるべきではないでしょうか。苦しみを取り除くことだけを考えるのではなく、なぜこのようなことが起こってくるのか。なぜ世界はこんなであるのか。なぜ私は、、、などと考えてみなさい、という神さまの警告のランプであるのです。しかし普通は、そこで誰かを非難したり、不幸を嘆き、同情してもらうことを期待するだけで終わってしまい、そのようなサイクルを一生繰り返して終わる人々も少なくありません。


不幸の系図

今日の説教のキーワードは「系図」ですが、王や貴族など地位の高い人々には家系図があります。音楽の父と言われるバッハには、多くの音楽家が含まれることを示す有名な家系図があります。普通の人はそれほど前まで先祖をたどることはできませんが、聖書にはすべての人の不幸の系図が記されているのです。それが新約聖書が系図から始まっていることと関係があるのです。

不幸の系図をたどって行けば、系図の最後には不幸の根本的な原因に突き当たります。そしてそこまで行かなければ、不幸の本当の解決も見つかりません。不幸を解決できない根本的な理由は、不幸の根本的な原因を知らないことです。そしてもっと近くに直接的な原因ばかりを探してそれを解決しようとしているにすぎません。しかしそれでは根本的な解決にはなりません。遅かれ早かれ、また痛みと苦しみが戻って来るのはむしろ当然であるのです。痛みの原因である病気が治っていないのですから。

どんな大きな川の源も、上流のほんの小さな流れにあるように、不幸の系図の源は、聖書の最初の部分のほんの小さく見える出来事の中に示されています。旧約聖書の最初の書である創世記の3章までさかのぼって、そこに不幸の源流を見つけることができます。ヘビの誘惑の言葉に従い、アダムとエバは自分の判断を優先させて、神の命令を破り、禁じられた木の実から食べたことです。

聖書によれば、人が神と神の言葉から独立して自分で判断するようになったことが、すべての不幸の始まりであるというのです。これは一般的な説明とは全く違っています。このようにしてあのようにして、第一次世界大戦や第二次世界大戦が始まった、夫の生命保険をねらって青酸カリを混ぜた、などと説明が普通はついています。

でもなぜそもそも戦争や争いがあるのか、殺人や強盗など犯罪が起こるのか、そのような説明はテレビや新聞にはありません。当然ですが、事件や戦争の根本的な原因が書かれている創世記を引用した新聞記事はまだ見たことがありません。


小さな神

すべての問題の根本的な原因は、人が真の神を捨て、自分が小さな神となったことです。これが聖書の説明です。世界がなぜこのようになっているのか。なぜ争いや犯罪が無くならないのか。なぜ最も小さな単位である家庭、夫婦、親子、の間にも問題があるのか。これが、そのような質問に対する聖書の答えです。

人はアダム以来、小さな神になり、神の言葉ではなく自分で判断するようになりました。なぜ人間関係の中で争いが絶えないのか。直接の理由は様々でしょうが、根本的な理由はそこにあります。小さな神と小さな神が戦っているのです。自分の支配する宇宙入り込む者は侵略者でありエイリアンであり攻撃の対象となります。すれ違う車を運転する人といちいち争うことはしませんが、ひとたびどちらかがバックして道を譲らなければならないなど、関係が生じるとき、争いが起こります。一人の年配の女性と一人の若い女性であった二人も、自分の息子と自分の夫という関係になれば戦争が始まるかも知れません。


二つの手段

不幸になった世界に楽園を取り戻そうとする記録が人間の歴史です。そしてその方法は二つです。第一は、人類が何千年も試みてまだ実現していない手段であり、文明によるものです。アダムとエバが楽園であるエデンの園を追放されたとき、園の入口には「立ち入り禁止」の看板が立てられました。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創世記 3:24)。

神に反逆し罪を犯した人間の前に、剣の炎が置かれ人が楽園に戻ってくることを妨げています。そのため人類は別の方法である文明によって楽園を築こうとしてきました。それが人類の歴史であり、人類の失敗の歴史です。地上最大のローマ帝国も悲しみも争いもない楽園を地上に築くことはできませんでした。現代は、科学技術や医学の進歩、経済の進展やレジャーによって楽園に戻ろうとしている時代です。しかし科学も医学も完全な幸福をもたらしたわけではありません。ディスニーランドから出て来ると、また元の世界に戻らなければなりません。リニアによって大阪まで1時間で行けるようになっても、1時間半分の心の余裕ができるわけではないと思います。

不幸の根本的な原因を解決していないからです。技術のあまりにも早い進歩のため、せっかく手に入れた優秀な製品もすぐに古くなってしまいます。医学の進歩によって長寿になったため、新たな問題も発生しています。

繰り返しますが、すべての問題の根本的な原因は、人が神から離れて独立し、みなが小さな神になったことです。キリスト教はしばらくの間、人を幸福にするための宗教ではありません。それならきりマルクスが言ったように、宗教はアヘンのようなものです。キリスト教は人を現実から逃避させるのではなく、人を現実と本当の自分に向き合わせ、根本的な問題を指摘し、そこを解決する唯一の方法を示す宗教です。

ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったキリストは、そのために来られました。人の罪を背負って身代わりとなって罪の罰を受けるためにこられたのです。あらゆる問題は人間の罪によって引き起こされるからです。すべての人が幸福になりたいと思っているにもかかわらず、多くの人は幸福ではありません。そしてたとえ今幸福であると感じている人も、それがいつまで続くのかという不安がつきまといます。

その最大の原因は、幸福をあまりにも近くで探そうとしているからです。私たちは時間的にも空間的にも、もっと離れることが必要です。日本を本当に理解するためには、日本を離れて外国で生活してみることです。そうすれば日本の良いところも悪いところが見えてきます。自分自身の源まで戻り、離れて私はどういう人間であるのかを知らなければなりません。それを教えてくれるのは聖書だけです。そこから私たちの日常の問題の根本的な解決を見出すことができるのです。