9.「摂理」(せつり)

創造の教理は、当然つぎに摂理の教理へと導かれます。神の摂理を理解する人生とそうでない人生とは全くちがったものになります。と言っても、神を信じると何か全くちがうことが起こってくるというのではありません。摂理を理解してもしなくても、これから起こってくることは何の変りもないでしょう。もちろん、これまですでに起こったことが変るわけではありません。しかし、神の摂理を信じるのとそうでないのとは、これまでの出来事も、これからの出来事も、いま起こっている事も、全くちがう光で見ることになるのです。

1970年の大阪万国博覧会のときには、何百万人という人々が土くれを見るために行列をつくりました。もちろん、月の石です。その土くれが月の石と知らなければ、だれもはるばる北海道や沖縄から来て、何時間も行列の中で待つことはなかったでしょう。全く同じ土くれでも、それが何であるかを知るのと知らないのとでは、全く意味が変るのです。

世界の大きな出来事、私たちの周りにおこってくる小さな出来事、それが何であるかを知るのと知らないのとでは、出来事そのものは同じであってもその人の生き方は全くちがったものになるでしょう。良い人生になるか、悪い人生になるかは、私たちに何が起こってくるかによってではなく、どのように出来事を理解するかによって決まるのです。多くの困難を経験する者が必ずしも不幸な人ではなく、多くのお金と高い地位をもつ者が必ずしも幸福な人ではないのはそのためです。「人生は何が起こるかが10パーセント、起こってくることにどのように対応するかが90パーセント」という言葉は本当だと思います。

家を建てるとき、建築家はまず設計図を描きます。これが、神の永遠の計画です。公務店はこの設計図に基づいて家を実際に建てます。これが、創造です。あとは、建て上がった家を管理し維持する働きが残っています。これが、摂理です。毛糸の玉を神の計画、この玉から糸が引き出されて純毛のセーターになっていく過程を摂理にたとえることもできます。どちらの例も不完全ですが、神の計画、創造、摂理の関係に小さな光を与えてくれます。私たちの周りに起こってくることは単なる偶然の積み重ねなのでしょうか。それとも、神の計画、創造、摂理という神の壮大な働きの一部なのでしょうか。

神は世界とその中にあるものを創造されただけでなく、それらのものを維持し支配し続けます。この神の働きが摂理です。神はこれから何が起こってくるかをご存じであるというだけでなく、神はすべてのことを支配しておられるのです。

「神は、この御子を万物の創造者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(ヘブライ人への手紙 1:2~3)。新約聖書も旧約聖書も、神は創造されたものを造りっぱなしにしておくのではなく、それを維持し保たれることを教えています。さらには、維持し保持するだけでなく、神はそれを支配をしておられます。そして神の保持と支配は、文字通りすべてのものに及びます。大宇宙、自然、物質、そして植物や動物、国家や国の支配者、さらには人間の誕生や人間の成功や失敗、また人間には偶然と思えるできごとも含まれるのです。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言 16:33)。エステル記やヨセフ物語は、偶然と思える事柄も実は神が支配しておられると教えています。

神の摂理への信仰は、希望と忍耐を生み出します。楽しいことばかりが起こるような人は世界中に3人以上はいないでしょう。どんな人でも、そう見えるか見えないかの違いがあるだけで、それぞれに苦しみ悩みがあるものです。

ヨセフ物語を部分だけを読むなら、不条理な出来事によるイライラの連続です。しかし、その背後には人間の思いを越えた神の計画があったのです。そのときには、理解することのできない出来事も、後になって神の支配を見て感謝することがあるでしょう。また、あとになっても、どうしてかわからないこともあるでしょう。そのとき、神の摂理を信じるなら、人間の目には最悪の状態と思える出来事の中でも忍耐と希望を持ち続けることができるのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙 8:28)。

私たちは次の瞬間何がおこるかは分かりません。しかし、次の瞬間もその次の瞬間も、来年も明後年も同じ神が支配をしておられることを知っているだけで十分です。