8.「無からの創造」

私たちが今見ている世界はどのようにできたのでしょうか。これまで、様々な人々が様々な説明をしてきました。その中で最も重要なのは、生命がどのように誕生したのかという問です。生命の中でもとくに人間をどのように説明するかが最も重要です。生物の存在に関する現代の最も一般的な説明は、進化論であることはいうまでもありません。アメーバーのような単細胞の生物から、長い年月をかけて高等な生物であるヒトに進化してきたというものです。しかし進化論にせよ生命の宇宙起源にせよ、それでも生命そのものがなぜ存在するようになったのかという説明はしていません。

聖書は、神が無から世界とその中にあるものを創造されたと教えています。文字通り神は六日間で創造された、いや神はビッグバンや進化を用いられたのだ。議論をはじめるときりがありません。私はそのどちらにも関心がありますが、ビッグバンであれ、進化論であれ、一つのことを除いて、聖書の「無からの創造」にあまりにも似ているのではないでしょうか。「一つのこと」とは神です。最新の科学は宇宙が無に等しい点から始まったと説明しています。生物は無に等しいアメーバーのような単細胞の生物からはじまったと言います。

一般社会では神が無から世界を造ったというような考えはほとんど相手にしてもらえません。しかし、ほとんど同じようなことを言っている科学者の説明には尊敬の念をもって聞くのは不思議です。科学の説明を信じるのは、聖書の説明を信じるのと同じぐらい大きな信仰が必要であるはずです。私は一度も、聖書と科学が対立していると思ったことはありません。対立するのは、間違った聖書理解と科学、そして間違った科学と正しい聖書理解です。

神の創造に関する最も重要な聖書の箇所は、言うまでもなく創世記の1章です。「初めに、神は天地を創造された」(創世記 1:1)。ここで用いられる「創造」と翻訳されたことばは、無から何かを造るときに用いられる特殊なことばです。

「神は天地を創造された」という時、神は完全な意味で無から世界を造られたと言っているのです。それではその前はどうだったのか、と言いたくなります。時間と空間さえも神によって創造された、というあたりの答で私たちは満足しなければなりません。時間と空間によって限定されている私たちは、これをよく理解することはできないからです。

創世記の1章は、神は六日間で世界を創造されたと記しています。創世記2章の最初の部分には、神が六日間の創造を終えて七日目に休息されたことが記されています。神と神の造られたものとの交わりの日であり、クリスチャンが日曜日に教会に集まる理由がそこにあります。またどこの家の壁にもかかっているカレンダーの原型がここにあるのです。六日間は、三日間ずつ美しく対応しています。一日目に対しては四日目。光と、光を発する天体の創造です。二日目に対しては五日目。大空と鳥、海と魚がそれぞれ対応しています。三日目に対する六日目は間接的な関係です。三日目に陸が海から分離され植物が創造されたことは、六日目の動物や人間が創造されるための準備になっているのです。

聖書を神のことばとして受け入れる教会は、創世記の1章を単なる神話として理解する考えを退けてきました。そして私も、創世記の1章は歴史であると堅く信じている者の一人です。ただし、創世記の1章の中心的なメッセージを忘れて、その他の議論に心を奪われるのは神話説と同じぐらい反対です。

それでは創世記1章は何を語っているのでしょうか。少なくとも2つあります。そして、この二つのメッセージに関しては、その他のどのような考えにもゆずることはできません。第一は、すでに何度も指摘してきたように、神は無から世界を創造されたということです。その意味で、創世記1章は歴史です。世界の具体的な造り方ではなく、世界とその中にあるすべてのものが、神によって無から造られたことが第一のメッセージです。

創世記1章のもう一つの重要なメッセージは、「神の国の設立」です。神は無から世界とその中にあるすべてのものを、ご自身の栄光のために創造されました。そしてすべての被造物の頭として最後に人間が造られ、人が世界を支配するように命じられました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上をはう生き物をすべて支配せよ。」すべてのものが被造物の冠であり王である人間に従い、そして人間が神に従うとき、文字通りすべてのものが神に従い、神の栄光があらわされます。これが神の国の図式です。しかし、私たちが良く知っているように、人の罪のため、この栄光の図式は早くも創世記3章でくずれ去ってしまいます。被造物の頭である人が、神に従わなくなったからです。創世記1章をみるとき、「神の国の設立」というあざやかなテーマが浮かび上がってくるはずです。聖書のその後の部分では、創世記 3章15節の約束がどのように歴史の中で実現されているかが記されていきます。神の国の再建と、神の国の完成が聖書の中心テーマです。この光の中で、創世記の最初の部分を読むことが最も重要な態度です。創世記1章を、重要なテーマであるとは言え、科学と宗教の議論に集中してしまうならあまりにも残念なことです。

私たちは猿やアメーバーの子孫ではなく、悲しみも喜びも、憎しみも愛も分かる魂をもっている神の息を吹き入れられた神の子孫であることを感謝します。それゆえ神のもとに帰るまで、私たちの魂は、平安とまことの喜びがありません。