7.「神の永遠の計画」

「なぜ?」「どのようにして?」色々なことが起こってくるのか。この問いに対して二つの代表的な考え方があります。一つは近代社会の支配的な考え方で、歴史なかで起こってくるすべてのことは偶然であるというものです。そしてその反対が、すべては決っていると考える「運命論」です。今日これから考えようとしている「神の永遠の計画」とは、誤解されやすいのですが、この「運命論」ではありません。

新聞紙を望遠鏡のように丸めて、それを両方の目にあて、街の中や家の中を歩いたらどうなるでしょうか。さまざまな問題がおこってきます。次から次へと人や物にぶつかるでしょうね。赤信号が見えないので、車にはねられるかも知れません。助けを必要としている人に気付かず、すぐそばを通りすぎていってしまいます。美しく咲いている花の側も通りすぎてしまいます。自分がしていることが、どんなに周りの迷惑になっているかにも気がつきません。

これが人間の心に罪が入ってから起こったことです。私たち人間の視野は、罪によって狭くなってしまったのです。それをわきまえていないため、様々な不都合が起こってきます。悪を行うことによって、悪いことが起こってくるのは当然です。しかし、悪いことが起こるのは、必ずしも積極的に悪いことをするからではありません。私たちの視野が狭くなっているために、事故が起きたり人と人がぶつかってしまうのです。また、神の永遠の計画の中にある、すばらしい祝福を見逃して悲しみながらそこを通りすぎてしまいます。多くの人が不幸であるのは、ここに理由があることにはなかなか気付こうとしません。

神の永遠の計画は、人の持つことのできる最も広い視野です。もちろん私たちは、神の計画のすべてを知ることはできません。いや、その100万分の1も十分には知ることができないのです。それは神が出し惜しみをしておられるからではなく、原因は私たちの側にあり、罪のため視界が狭くなりすぎたのです。

ですから神の計画があることを知っているのとそうでないのは、全く異なった人生になるのは間違いありません。物事を見る視野が広くなり、人と衝突したり人生に行き詰まってしまうことは大幅に減少するでしょう。神の永遠の計画という大きな視点を与えられることからくる利益は、計り知れないものがあります。神の永遠の計画についていくつかのことを考えましょう。

「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」エフェソの信徒への手紙 1章11節は、このように神の計画というものがあると告げています。そして、すべて起こってくることはこの計画による、というのです。聖書によれば物事は偶然に起こっているのではありません。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者のたちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒言行録 2:23)。

日本のように伝道の困難な国では、神の計画という教理は重要であり、それは大いなるはげましとなります。初代教会はそれ以上に困難な状況の中で伝道をおこないました。そして神は、「この町には私の民がいる」といって励まされたのです。

神がたとえ一人も救わなかったとしても、何の不正もありませんでした。すべての人は、聖なる神の律法の合格点に全く達していないからです。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙 3:10)のです。そして、「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(同 3:19)のです。これが標準であり原則であるはずです。

しかし、神が実際に計画し、実際に実行されたのは、すべての人を滅ぼすことではありませんでした。罪をおかした人類に対して、救い主を約束してくださいました。独り子を犠牲にする程、罪人を愛してくださったのです。

独り子を与えるほどに私たちを愛してくださる方が、起こってくるすべてのことを支配しておられることを知るなら、様々な困難や試練を乗り越え平安を得る力となるでしょう。自分ですべてを守らなければならないとしたら、この世はなんと不安定で危険なのでしょう。