6.「三位一体」(さんみいったい)

三位一体の教理の第一は、神が一人であることです。しかし三位一体の教えは、互いに相反するように思える二つの教えからなっています。一方では神は一人であると言いながら、もう一方では一人の神には父・子・聖霊という三つの人格があると言うのです。これが、「三位一体」の教理の核心です。人間の中にはこれに似たものは全くないため、分からないのは当然です。人間の場合は、一人の人のうちには、一つの人格しかありません。それゆえ、この教えを人間の限りある頭で完全に理解しようという思いをまず放棄しなければなりません。

神はエホバ一人であることを強調するエホバの証人によれば、キリストはこの神によって造られ、聖霊は神の働くためのエネルギーだというのです。良く分かる説明ですが、問題が一つだけあります。聖書は神をそのように教えていないということです。逆に、三位一体を三人の神と理解する人々がいました。一人の人が三つの役割を演じる役者のように考えたのです。これも分かりやすい説明であることは確かですが、これも聖書とは無縁であるという点では共通しています。

三位一体の教えを何とか頭で理解しようとした人々だけでなく、この教えを知ろうとしない無関心な人々も難破していきました。よく知らないために、異端のえじきになってしまったのです。知ろうとしすぎる、知ろうとしない、どちらも神の真理に敬意をはらわなかったことで共通しているのです。神の真理に対して、履物を脱がなかったのです。限界をわきまえつつ、しかし聖書で示された範囲で最大限に神の真理を知ろうとするべきです。三位一体の教理に関しては、それが神を敬うことです。

父・子・聖霊の力と栄光は同じです。否定的に書き換えると「父は子より偉くなく、子は聖霊よりも偉くない」となります。つまり「偉さ」に関しては父・子・聖霊は全く同じであるのです。しかし聖書を読むと、父がいちばん偉く、次が子で、最後が聖霊であるかのような印象を受ける場合があります。父・子・聖霊の中には偉さに違いはありませんが、秩序があります。これなら人間の中にも見られるものであり、ある程度は理解できるでしょう。

「神は三位一体です」というような記述は聖書のどこにもありません。「ほら、神は三位一体でしょ」と簡単に説明できるのでもありません。聖書の全体を、おそれと尊敬の念をもって、じっくりと調べなければならないのです。

旧約聖書では三位一体は、ぼんやりとしています。新約聖書では、三位一体はもっと明確に示されます。多くはありませんが、父・子・聖霊が同時に示されることもあります。「イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に下って来るのをご覧になった。そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」マタイによる福音書3章のイエスのヨルダン川での洗礼の場面です。父の声、鳩のように下った聖霊、そしてもちろん洗礼を受けるイエスが同時に示されています。次は礼拝の最後の祝祷で用いられる、コリントの信徒への手紙二 13章14節です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」そして、マタイ福音書の最後にある、主イエスによる宣教命令です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべてまもるように教えなさい」(マタイ福音書 28:19)。その他、それぞれ父・子・聖霊が神であると教える箇所は多くあります。

神の性質(属性)からも、神の中に複数の人格があると考える方が合理的です。神の最も重要な性質の一つは「愛」です。神の愛は無限、永遠、不変です。三位一体の神は御自分の造られた世界、とくに被造物の冠として造られた人を愛しておられます。しかし、世界が造られる前はどうだったのでしょうか。何を愛しておられたのでしょうか。愛という神の最も重要な性質は、世界と人が造られるまでは開店休業だったのでしょうか。創造以前の神の愛は何に向けられていたのでしょうか。もちろん、三つの人格の中で愛の交わりがあったのです。

三位一体の教えは、最も困難な教えであるだけでなく、最も感謝すべき教えであることを知らなければなりません。聖書が語っていることをそのまま受入れるなら、三位一体は最高にすばらしい教えとなるのです。

父なる神は独り子イエス・キリストを世に送ってくださいました(ヨハネ福音書 3:16)。子なる神は、私たちの罪を負って十字架で死なれました。私たちの代わりに罰を全部受けてくださったのです。それゆえ神は、キリストを救い主として信じる者のすべての罪をゆるしてくださるのです。

しかし、これですべてではありません。まだ解決されなければならない重大な問題が残っているからです。人はそのような大きな犠牲の愛を示されても心を動かされないのです。

感謝すべきことに神はそのような人間の心に聖霊を与えて、私たちが神の愛を受け入れることができるようにしてくださるのです。もしあなたが少しでも神の愛に心を動かされるなら、それは聖霊の神があなたの心に働いておられる確かな証拠です。「わたしはおまえたちに新しい心を与え、お前たちに新しい霊を置く。わたしは、お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル書 36:26)と預言者が語ったのは正にそのことです。