5.神はどんなお方

不思議なことに多くの日本の宗教にとって、礼拝の対象はそれ程問題にならないようです。日本人にとっては礼拝の対象よりも、礼拝の姿勢の方が大切であるように思われます。

キリスト教は、まず、礼拝の対象を明確にしようとします。聖書は神がどんなお方であるのかを多くの紙面を用いて詳しく記しています。どんなに真面目で熱心であっても、礼拝の対象がまちがっていたのでは礼拝は空しくなり祈りも聞かれません。

神を知る目的は、正しい礼拝をおこない、正しい生活をする神の民となるためです。これこそがそしてこれだけが、聖書をより深く研究し神学をする目的でなければなりません。聖書に示された神を知らないのならば、熱狂的に神を礼拝し大声で賛美をしても、「あなたがたは知らないものを礼拝している」(ヨハネ福音書 4:22)と言われてしまうでしょう。それゆえ私たちは、熱心になってまず聖書を調べる者とならなければなりません。自分勝手な神を想像し、自分勝手な熱心で神を礼拝する危険を注意深く避けなければなりません。単なる興味から神を知ろうとしてはなりません。しかし、口を手にあて、履物を脱いで、行けるところまで近づきましょう。聖書に示され明らかにされた神を積極的に知ろうとしないことは、もっと大きな罪であるからです。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ福音書 4:24)。サマリアの女に対する、主イエスご自身による神の定義です。神は霊であり、神は物質ではありません。神に肉体はありません。神は、白いひげをはやしたおじいちゃんのようではありません。十戒の第二戒では、刻んだ像をつくることが禁じられていますが(出エジプト記 20:4)、神が霊であることを否定することにつながるからです。

神は霊です。これが神に関する最重要の教理ですが、それだけでは十分ではありません。天使も霊であるからです。そして天使の堕落した悪魔も霊です。神は存在、知恵、力、きよさ、正義、善、真実が無限、永遠、不変であるような霊です。前半の七つは、人間にも共通するものがあります。それゆえ、私たちもある程度は理解することができます。しかし、「無限、永遠、普遍」という後半の三つは人間にはあてはまりません。したがって私たちは完全には理解できません。

神の存在は無限、永遠、不変です。神は最初から存在し、永遠に存在します。始まりも終わりもありません。どこにでも存在し、神のおられないところはありません。神は永遠にかわることがありません。

神は全能でありあらゆる知識は神のものです。知恵とは知識を最もかしこい方法で実行する能力です。神はさらに、知恵を実現する力をも持っておられます。良い方法を知っていてもそれを実現する能力を持たずに、ただ指をくわえてただ見ているだけのお方でもありません。神が「光あれ」と言われたとき、「光があった」(創世記 1:3)のです。

神の知恵と力はあらゆるものに現れています。しかし、神の知恵と力がもっともあざやかに現されるのが主の十字架と復活においてです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙一 1:18)。

神は完全にきよいお方です。きよさとは、消極的には罪からの分離です。きよさのゆえに神は罪を憎まれます。また神の民に罪から遠ざかることを要求します。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙 12:2)。

神は完全な正義です。正義とは、神のきよさが歴史の支配の中であらわされることです。神はきよさを愛し、罪と汚れを憎まれます。それゆえイスラエルが罪をおかすとき、怒りが発せられます。神の怒りとは、私たちのように感情的に腹をたてている状態ではありません。罪に対する神の憎しみの表現です。

神のきよさと正義の怒りがもっとも明確にあらわされたのは、カルバリの丘の上です。神が完全にきよいお方でなければ、神が完全に正義のお方でなければ、主イエスの十字架は歴史の中で必要がなかったのです。神がただ一つの罪をも見逃すことのできない正義のお方であるゆえ、神の独り子をあのむごたらしい十字架につけて罪を罰せられました。御子は私たちの罪をすべて負われたからです。

神は善です。神の善には、愛、恵み、慈しみ、あわれみ、忍耐、真実などがふくまれます。最も偉大なのは神の愛と恵みです。恵みは、値しない者に与えられる神の愛です。神は裁きと永遠の刑罰だけがふさわしい私たちに、永遠の命を与えてくださいました。神の正義と愛がもっとも鮮やかに現されたのは、やはりカルバリの十字架です。

永遠の命を受ける者と、永遠の刑罰を受ける者のちがいは唯一つだけです。前者がきよく、後者が汚れているというのではありません。両者ともに汚れています。永遠の刑罰を受けるのに十分に汚れています。唯一つの違いとは、悔い改めです。

神が無限、永遠、不変であることに感謝します。人は他の人の言葉や行動、周りに起こってくる出来事にいつも左右されます。しかし、神は何事によっても影響を受けないのです。また神が与えて下さった私たちの救いはそれゆえ確かです。サタンによっても、艱難によっても、私たちの罪や失敗によっても変更されることがありません。

くりかえしますが、ただ知識を増やそうとして神を知るのではありません。正しい礼拝ときよい生活をするために神を知らなければなりません。私たちがどんな神を信じているのか、それがあなたの礼拝と今日の生活を決定するのですから。