4.聖書の内容は何か

聖書にはすぐに役立つ情報はほとんど見当たりません。現代人はせっかちです。すぐに役立つ情報をほしがります。インターネットの検索では、ほしい情報にピンポイントで到達します。しかし聖書をいくら読んでもそんな具体的で親切なガイドはありません。

聖書は大変古い本だからでしょうか、地球の反対側で起きたことが書かれているからでしょうか。そうではありません。聖書には原則が記されているからであり、その原則をどのように毎日の生活に当てはめるかは自分でよく考えなければなりません。

町の地図の全体像が頭に入っていれば、少しぐらい間違っても修正しながら目的地に到着することができます。たとえばこれが原則を知っているということの意味です。人生の中でも道に迷うことがあるでしょう。失敗することがあるでしょう。どっちの道を進めばよいのか困ってしまうことがあるでしょう。そのようなときに聖書は、「次の信号を右へ、その次を左へ、、、」と教えてくれるわけではありません。しかし聖書は人生全体の地図のように、私たちはその地図をてがかりに目的地に到達することができるのです。少しぐらい間違っても、失敗をしても、また元の正しい道にもどることができるのです。

聖書は方向を指し示す書である、と少し言い替えても同じです。方向が間違っているなら、いくら努力をしてもいつまでたっても目的地に着くことはありません。地図でも人生でも、方向を間違わないようにすることこそが最も重要であることは言うまでもありません。

「わたしたちは、神さまの栄光をあらわし、神さまを永遠に喜ぶために生きるのです。」これが聖書が示す私たちの正しい方向であるのですが、あなたはこの方向に進んでいるでしょうか。それとも別の方向に向かっているでしょうか。方向が間違っているなら、いつまでたっても目的地に到達することはありません。人生の最後にそれが分かるのではなく、そうなることは今から決まっているのです。現代人は忙しい毎日ですが、1日に1回は少し立ち止まって静かに考えてみることが大切です。

道路が渋滞するようになると、バイパスの建設が必要になります。しかしバイパスを通って避けてはならない道があるのです。それは神の怒りの教理です。神の裁きの教理あるいは罪の教理と言い換えても同じです。しかし多くの人はこの重要な教理を避け、バイパスを通って幸福や天国という目的地に近周りをしようとしています。実に多くの人が利用するこの広い道は、永遠に目的地にたどり着くことのできない間違った道であることを知らなければなりません。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(マタイ福音書 7:13)。

神は正しいお方であるため、「よしよし」と言ってただで罪をゆるすことはできません。裁判官が殺人犯の涙を見て無罪にはできないように、正義の神は罪を罰することなしに罪をゆるすことはできないのです。神は罪を犯している私たちを罰するのではなく、ご自分の独り子を十字架につけて罰せられました。そしてこのお方を救い主と信じる者の罪がすべてゆるされるのです。

聖書はたとえばこのようにして、非常に大きな方向を指し示す書であるのですが、人はこのようなメッセージを好まず、これを避けて通ろうとします。そこで聖書は、「そっち」ではない「こっち」と、私たちの進むべき全体的な方向を指さすのです。「罪」のことを避けて通る道は「滅びへの道だ」と。

聖書はまた、私たちが他の人と接するときの原則を示しています。そのときに一回限り役立つ指示ではなく、いつの場合も用いることのできる人間関係の原則が示されているのです。人は神の前に立つまで、自分自身が分かりません。そのため他の人を裁いてしまいます。そして人間関係がうまくいきません。すべては神との関係に根本的な原因があるのですが、聖書によらなければそのことに気づくことは決してありません。