3.「特別啓示」聖書

「人は何のために生きるのか」という、人間にとって最も重要な問に対する答えを人は見失ってしまいました。それが曲げられ、押さえつけられ、覆われてしまいました。それでも良心は語り続けることを止めません。

とはいえ、自然啓示や良心の声によっては、神は十分に人に語ることができなくなってしまったことは確かです。とくに人間にとって最も重要な神に関する知識が失われてしまったのです。

神はそのような人を見捨てるのではなく、他の特別な方法で私たちにとって最も大切なことを知らせようとしました。その方法は、自然啓示に対して特別啓示と呼ばれています。自然や良心を通しての神の語りかけに欠陥があったり不十分であるために、人は神が分からなくなったのではありません。自然啓示に欠陥があるためではなく、人間の心の側に問題があるのです。

問題とは人間の罪であり、人は故意にあるいは無意識の内に、自分にとって都合の悪い神を遠ざけ無視し、または自分の都合のよいように神に関する知識を捻じ曲げてしまったのです。それがたとえば無神論や偶像礼拝であるのです。表現や程度は様々であっても、そのように神から離れてしまった人間に語りかける神の特別の語りかけの方法も様々で、その中で最も重要なものが聖書であるのです。

自然や良心を通して語られたメッセージが、罪や弱さのために覆われたり曲げられたりして、曖昧になってしまいました。とくに救いに関するメッセージは、人間の罪のためにそのような自然啓示によっては全く伝わらなくなってしまったのです。そこで神は様々な仕方で、神の救いの計画をご自分の民に示されました。神はノアやアブラハムに直接語りかけ、預言者にメッセージを伝えました。とはいえそのような特別啓示も、まだきわめて不十分なものでした。そこで神は、神の言葉を文字として書き止め、文書として残すようにされました。特別啓示の文書化、それが聖書であるのです。

ですから聖書を他の普通の本と同じように考えてはなりません。聖書は図書館や書店にある無数の本のうちの一冊ではありません。キリスト教のコーナーにある一冊の本でもありません。聖書は神の言葉であるからです。「聖書は神の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙二 3:16)。

聖書の著者は多くあります。しかし彼らは神に導かれて聖書を書いたのであって、聖書の真の著者は神であるとパウロはテモテに語っているのです。と言ってもダビデやイザヤ、マタイやパウロは、ロボットのように天からの無線操縦で聖書を書いたという意味ではありません。それぞれの能力や性質や経験などが十分に用いられ、しかも誤りがないように彼らは聖霊によって導かれ守られたのです。教理的にはこれは「聖書の霊感」と言われ、聖書は誤りのない神の言葉であるという意味です。

神が人々に語りかけるため、昔用いられた大部分の手段は今では停止されています。直接の語りかけ、夢や幻や奇跡を通しての語りかけ。そのような特別の手段を、今でも昔と同じように考えるべきではありません。今では神はもっと正確に神の真理を語る手段を持っておられるからです。それが聖書です。私たち人間は神のやり方について、すべてを知っていると思うべきではありません。今でも特別の仕方で神は人に語られることがあるかもしれません。しかしすでに与えられている聖書を大切にしないて、夢や奇跡など昔のような手段を求めるのは明らかに間違っているのです。そのような仕方では神は真理を示されることはないでしょう。

私たちはノアやアブラハムよりも大きな特権をいただいていることを見逃してはいけません。彼らは耳で神の声を聞いたとはいえ、私たちはいつでも聖書を通して神の声を聞くことができるからです。そしてこの聖書には神が人に最も教えたいこと、すなわち神の救いの計画があますところなく記されているのです。