26.「死の時の祝福」

ゴールデン・ウィークにどこに行くという話に花が咲くのですが、死後どこに行くという話が盛り上がることはありません。死後は天国(極楽)に行くと何となく思っている人、死後は何も無くなってしまうのではないかと漠然と考えている人。様々ですが、あなたは死後の世界や死後の状態をどのようにお考えでしょうか。またその根拠は何でしょうか。死を経験し、死に勝利し、今も生きておられるキリストから使徒たちが聞いて書かれた聖書を、私たちは信じているのです。

死後のことは、「中間状態」と教理的に呼ばれることがあります。現在の状態と最終的な状態の中間的な状態であるからです。しかし一般的に死は、中間ではなく最終的な状態と考えられています。それですべてが終りです。そのため、それまでは苦しい治療も大きな支出もいとわなかったのに、その後のことは予定には全く入っていないのが普通です。人生の予定表の中に自分の死を書き入れている人は、非常に少ないのです。

しかし神の言葉である聖書によれば、死は終着駅ではなく中間の駅にすぎません。だとすればその後どこへ行くのか、そんな重大なことをまじめに考えないのはおかしいと思いませんか。

神は人を肉体と魂に創造されました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記 2:7)。そして死のとき、肉体と魂が分離し、肉体はだれもがよく知っているように、火葬場で焼かれたり、そのまま土の中に埋められ葬られます。それゆえ死は、「土に返る」「塵に返る」(同 3:19)などと表現されているのです。

では魂はどうなったのでしょうか。日本では葬式のときに、故人に対する最後の言葉として、遺体に向かって弔辞が読まれるのが普通です。キリスト教の葬式ではそのような弔辞はありません。人の言葉を理解し何かを感じるのは肉体ではなく魂であり、その魂はもうそこにないからです。

では魂はどうなったのでしょうか。肉体に関してはクリスチャンもそうでない者も同じです。しかしクリスチャンの魂はただちに清められ天国へ行く、と聖書には記されています。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ福音書 23:43)。これは十字架のキリストが、両側で十字架にかけられていた二人の強盗の一人に語られた言葉です。魂は、40日後でも何千年後でもなく、「今日」、すなわち肉体の死のときただちに天に引き上げられたのです。

では肉体はどうなるのでしょうか。肉体は墓の中でだんだんと醜い姿に朽ち果てていきます。クリスチャンは死んだ後、魂だけが天国に行き、それが最終的な状態なのでしょうか。

主イエスは肉体の復活があることを弟子たちに語りました。「驚いてはいけない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」(ヨハネ福音書 5:28~29)。

地上の肉体は墓の中で滅びますが、永遠にそのままではなく、肉体が復活するときがあるというのです。そしてその肉体とすでに天に召された魂が再び結合してキリストとお会いし、私たちは永遠に天で過ごすことになるのです。それがキリストを信じるクリスチャンの終着駅であり、それまでは途中の駅での一時停車や乗り換えにすぎません。

死を恐れるのは、その向こうに裁きが待っているからです。しかしキリストを罪の救い主と信じるクリスチャンにとって、死はもう恐ろしいものではありません。キリストが私たちの代わりに十字架で罪の罰を受けてくださったからです。

世の人々が最も恐れる強敵に向かって「死よお前のトゲはどこにあるのか」とさえいばって言うことができるのです。息が止まったときから死が始まるのではなく、人が罪をおかしたとしから死は始まりました。つまり人が生まれたときからもう死に初めているのです。そして死のときに最高度にその性質をあらわすだけで、人生の途中で様々な悪さをしているはずです。

人生の〆切りである死の前に、様々な悪さをする根本的な原因である罪を何とかしておかなければなりません。