25.「きよくされること」―聖化―

「義と認められること」(義認)、「子とされること」、には「きよくされること」(聖化)が続きます。この三つの教理を、セットとして考えることが重要です。

服を脱いだだけで風呂に入らないということがないように、汚れた衣を脱いだ者は次にそれにふさわしく洗い清められなければなりません。城の前で物乞いをしていたこじきが、王の子供として養子にされたとき、すぐに王子や王女のように気品にあふれたふるまいができるようになるわけではありません。しかし王子らしく行動したり、王女らしく話すことができるように訓練を受けなければなりません。その訓練が聖化という恵みの過程です。

聖化は、すべてのクリスチャンのために準備されている救いの過程であり救いの恵みです。しかし罪のゆるしだけで止まってしまう残念なクリスチャンがあまりにも多いのです。帝国ホテルでフランス料理のフル・コースをオーダーし、スープだけを飲んで満足し家に帰るのはもったいないと思わないでしょうか。罪のゆるしが救いの重要な要素であることは確かですが、それは宮殿の玄関でありフル・コースの前菜にすぎないのです。その後には驚くほど豪華な様々な部屋や、目のさめるようなおいしい料理が続いてくることを知らなければ、取り返しのつかない大損をしてしまいます。しかしそれが多くのクリスチャンの現実であると言わなければなりません。

聖化は特定のすぐれたクリスチャンだけではなく、すべてのクリスチャンのために準備されている祝福です。神の子であるクリスチャンが成長し清められることは、神の命令であり神の意志であるからです。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(テサロニケの信徒への手紙一 4:3)。

パウロも、十字架の最終的な目的が、私たちが清められることであると記しています。「キリストがわたしたちのためにご自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法からあがない出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです」(テトスへの手紙 2:14)。聖化は救いの恵みのオプションではなく、すべてのクリスチャンのためのものというだけでなく、むしろ十字架の目的でさえあるのです。ところが何と多くの神の子が、最初の駅である罪のゆるしで下車してしまい、贖いの壮大な旅をそこで終えてしまうことでしょう。

聖化と義認には共通点と相違点があります。まず聖化は「恵み」です。「恵み」とは値しない者に与えられる祝福です。では相違点は何でしょうか。義認と子とされることは法的であり、聖化は実際的です。法的な決定がなされた瞬間に義認と子とされることが実現します。しかし聖化は長い時間をかけて実現される過程であるのです。

それゆえ次の二つの相違点もこれに似ています。義認と子とされることは一回限りの出来事であり、繰り返されることはありません。しかし聖化は何回も繰り返される恵みであり、地上の生涯を終えるまで私たちは聖化の恵みを受け続けるのです。またそれゆえに、義認と子とされることはただちに完了されるのですが、聖化は地上では未完成です。

もう一つの相違点は、私たちに役割があるということです。私たちの役割があるということと、救いの根拠となる行いを積み上げることは同じではありません。神は私たちの働きを根拠にではなく、私たちの働きを通して聖化の業を行われるのです。

「私をきよめてください」と熱心に祈ります。しかし何も起こりません。5年たっても10年たっても、熱心に祈り続けても、徹夜で祈っても、何も変化は見られません。私たちが神の律法に従うことを通して、聖化が私たちのうちに実現されていくからです。

聖書には無数の命令があります。命令を受けたクリスチャンはどうすればよいのでしょうか。もちろんこの命令のように行動するべきです。そうする気持ちになるまで待つのではありません。そうすることができるよう、徹夜で祈ることや神にゆだねること、が求められているわけはありません。お母さんに「おもちゃをかたずけなさい」と命じられた子供が、もし「おもちゃがかたずける気持ちになるようにしてください」、「かたづけられるように神さまにゆだねます」などと徹夜で祈っていたら、お母さんはどうするでしょう。もう一度大声で「はやくかたずけなさい!」と言うに違いがありません。しかし多くのクリスチャンは、聖化に関しては同じ間違いをしているのです。