24.「子とされること」

義認の教理の次は、子とされることの教理です。神と人が法的に敵対関係であるままでは、神と人が父と子の関係になることは不可能です。同じ夕食の食卓につきながら、裁判官である父が被告である子を明日の法廷で有罪判決をする場面など考えられません。

子とされることは、義と認められることよりさらに進んだ祝福です。義認とは法的に神に受け入れられる状態になることですが、子とされることは特別の愛の関係に受け入れられることであるからです。キリストを信じた瞬間に私たちは義と認められ、しかも神の子として認められるのです。

ただし神の子として自覚するようになるのはある程度の時間が必要であり、その自覚が強められ確かなものとなるにはさらに時間がかかるのが普通です。しかし私たちの自覚にかかわらず、キリストを信じる者は神の子であるのです。

義認同様、子とされることも法的な神の行為です。私たちは罪のために怒りの子(エフェソの信徒への手紙 2:3)であったにもかかわらず、神の憐れみによって神の子とされ神の愛の対象とされるのです。

人間の場合でも、血のつながりのない他人の子どもを法的に自分の子どもにすることができます。そして市役所や区役所で養子縁組の手続きをした、その瞬間に親子関係が発生することはだれでもよく知っています。そのように義認によって天で養子縁組の手続きが完了し、私たちは神の家族になったのです。

最も重要なのは、義認と同様に子とされることも法的な手続きであると理解することです。それを理解していないために、せっかくの祝福を無駄にしたり、様々な誤解とトラブルが生じることがあるからです。義認は神の法廷での無罪判決です。さらにはキリストの真っ白な義の衣が聖徒の上に着せられ、神は私たちに着せられた義の衣を見て「正しい人」と認めてくださったのです。有罪には程度の差がありますが、無罪には程度の差はありません。より多く無罪であるとか、より少なく無罪であるというようなことはありません。つまり義認には程度の差はありません。そして子とされることにも程度の差はありません。兄はより多く父の子どもであるとか、弟はより少なく父の子どもである、などと言うことはできないでしょう。

実感がともなうには時間がかかる場合があります。子供が生まれて実感がないからといって父親にならなかったのではありません。私たちが信じるべきなのは、自分の気持ちや実感ではなく、神の言葉である聖書に記された霊的な事実です。そして神の子とされているなら、遅かれ早かれそれを意識するようになるはずです。「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤの信徒への手紙 4:6)。

子とされることには様々な特権と祝福が伴います。父と子は同じファミリー・ネームとなり、私たちは神の子とよばれます。同時に子とされることには、様々な責任が伴います。子供の不名誉は親の不名誉です。マタイ福音書5章16節の主イエスの言葉にはその両方の意味が含まれているのです。もちろん神は、罪によって私たちを神の民から除外なさることはありません。

警察官が不祥事を起こすことがありますが、それは制服を着ているときよりも制服を脱いだ時の方がはるかに多いのです。神の名をいただいていることは、窮屈に感じるときもあるでしょうが、それはむしろ私たちを罪から守る祝福と考えるべきです。

クリスチャンの祈りは、神が父であるという意識がなければ、抽象的で冷たいものとなります。「天にましますわれらの父よ」とクリスチャンは祈り始めます。私たちは壁や空気に向かって祈るのではありません。まず祈りの対象がどなたであるのかを知らなければなりません。それは私たちの神であり私たちの父であるお方であるのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(ローマの信徒への手紙 8:17)。父親と血のつながった子と、養子とされた子は、法的には差がありません。たとえば両者の相続権は同じです。養子とされた子も同じように父の財産を受け継ぐ権利を持っているのです。

子は父にどこか似ているものです。クリスチャンにとって最高の祝福は、天の父に似る者となることであり、神が父であるなら子である私たちにもその性質が分け与えられているはずです。