23.「義と認められる」―義認―

「御利益宗教」という言葉には、批判的なニュアンスが込められています。ただ利益だけを求めている宗教という感じでしょうか。しかしキリスト教もある意味では御利益宗教であるのではないでしょうか。良いことが何もないのに、私たちはクリスチャンになったのでありません。たとえば幸福になることを願って教会の門をくぐった人は少なくないはずです。福音は英語では「良い知らせ」Good News というぐらいです。だれも不幸になることを願って宗教をはじめるということはありません。ではいわゆる御利益宗教とキリスト教の福音は何か違いがあるのでしょうか。

まず何を良い知らせと考えるかが違っています。「この宗教を信じれば、病気が治る、お金がもうかる、大学に入学できる」などが御利益の代表的なものですが、福音が約束しているのは、神から正しい人と認められること、神のこどもとされ、きよくされる恵みです。それぞれ教理的な言葉では、「義認」「子とされること」「聖化」です。今回は「義認」を考えます。

聖書はできるだけ多くの視点から読むべきですが、とくに「神の愛」と「神の義」という二つの視点を絶対に見失ってはなりません。「正しい人と認められる」とは、教理的な言葉では「義認」です。そして義と認められた人が義人です。義認は法律の言葉であり、裁判のとき裁判長から無罪と宣告されることです。つまり主イエスを救い主と信じるクリスチャンとは、神の法廷で無罪と宣告された者であるのです。

でもなぜ罪をおかし罪をおかし続ける者が、無罪を宣告され正しい人と認められるのでしょうか。裁判官である神の不正や誤審のためでしょうか。「まあいいだろう」と言って神は人の罪を大目に見られたからでしょうか。人間の親は我が子の罪をそのように扱うことがありますが、神は愛のお方であると同時に正しいお方(義)であるため、罪を罰することなしに人の罪をゆるすことはできません。

この難しい問に対する答えは、神の独り子の十字架にだけあります。「人はみな罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙 3:23~24)。

本来は罪を犯している私たちが罰せられるべきであるのですが、神はご自分の独り子を私たちの代わりに罰し、そしてこのお方を自分の救い主と信じる者の罪をすべてゆるしてくださいます。十字架は、「神の義と愛のあえるところ」(讃美歌262番)であるのです。

「無償で義とされる」「神の義を得る」など、パウロは「義」という言葉を多く用いる著者です。繰り返しますが、義は法的な言葉であると理解することは救いの理解には決定的に重要です。理解するのとそうでないのとは、クリスチャンとして生きるにあたって、実に様々な面で大きな違いになって現れてくるからです。

「義認」の消極的な面は神の法廷の裁判長である神から、「無罪」と宣告されることです。神の法廷は最高裁判所に似ています。判決は最終的に確定したのです。そこで言い渡された無罪判決は永遠に変更される可能性はありません。全能の神の前に新証拠が出される可能性もありません。

カトリック教会の教理は、「義認」と「聖化」の区別があいまいであり混乱があります。「義認」も過程であり、より多く義とされたクリスチャンとより少なく義とされたクリスチャンがあることになります。そして最も多く義とされた者が「聖人」と呼ばれています。

しかし、より多く無罪の人とより少なく無罪の人、という区別はありません。兄は弟より多く子どもであるとか、より少なく子どもであると言うことはありません。どちらも法的にはある人の子どもであることには変わりがありません。

実はプロテスタント教会の多くのクリスチャンも、この重要な二つの教理を混同して、「義認」の祝福をムダにしていると言わなければなりません。クリスチャンは義と不義、無罪と有罪、の間を行ったり来たりするのではありません。「義認」は前述のように一度限りの最終的な宣言です。すなわちどんな事情によってもキャンセルされることはありません。私たちはクリスチャンになっても、誘惑に負け罪をおかすことがあります。気がついているかどうかは別ですが、むしろクリスチャンになっても毎日罪をおかし続けているのが現実です。その時、私たちは有罪になって悔い改め、そしてまた罪がゆるされる。このようなことを繰り返しながら、クリスチャンとしての一生が終わるのではありません。

繰り返しますが、クリスチャンは一度限り義と宣告され、そのあと最後まで無罪の状態は変更されることはありません。私たちに与えられた命は「永遠の命」です。