22.「聖霊」の働き

罪人を救うイエス・キリストの働きについて考えてきました。私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかったお方を、自分自身の罪からの救い主と信じる者の罪がすべてゆるされる。これがこれまでの教理のまとめです。でもなぜ、約2000年前に生き十字架で死んだ救い主が、21世紀に生きる私たちの救い主であると言えるのでしょうか。

文化的な領域では何百年ぐらいは簡単に飛び越して、過去の作品が現代人のものとなります。たとえばバッハやモーツアルトの音楽、ミケランジェロやロダンの彫刻、ベラスケスやモネの絵画は、現代人の心を根底から揺り動かし感動させる力を持っています。アルキメデスの原理は現在でも真理であるのです。

ではキリストの十字架の救いが現代の私たちのものとなる、とは果たしてどういう意味なのでしょうか。それと同じような意味なのでしょうか、そうではないのでしょうか。

キリストの生涯は単なる模範として後の人々に示されたのではありません。そうであるあるなら深刻な問題が一つ残ることになります。立派な模範が示されても、私たちはそのようには行動できないのです。

キリストは十字架で私たちのために救いを勝ちとってくださいました。「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」(コリントの信徒への手紙一 6:20)。このような聖書の表現は、キリストの十字架は単なる後世の人々のための模範であるという考えを否定しています。それ以上の意味を含んでいることは明らかです。「私たちもイエス様のようにしましょう」と招かれているわけではないのです。キリストが御自身の血によって、私たちのために勝ち取り、買い取り、手に入れた救いを問題にしているからです。

「あがない」のもともとの意味は、身代金を払って奴隷を自由にすることです。キリストは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ福音書 8:34)と言われました。クリスチャンとは罪の奴隷であったが、キリストの十字架の血によって買い取られ自由にされた者のことです。

約2000年前の十字架の救いが、私たちにも有効であるのは、聖霊の働きによるのです。つまり聖霊によって心が動かされ、聖霊によって心が変えられ新しい命が与えられるまでは、だれもキリストの模範に従おうと思わないのです。いやむしろ、そうすることをかえって憎むのです。人はみな罪の奴隷になっているからです。

しかし、インターネットでダウンロードするように、2000年前の救いが自分の心にスポンと入ってくるというのではありません。聖霊が働くとき手品の種明かしのように、聖書が突然分かるというのではありません。聖霊は神の言葉である聖書のみ言葉を通して働かれるからです。人間は神の働きをすべて知っているわけではありませんが、神が私たちの心に働くとき普通に用いられる手段である聖書をおろそかにしておいて、何か奇跡的な方法で働いてくださると期待するべきではありません。

聖霊の消極的な働きとは、福音を理解し福音を信じる障害物を心から取り除くことです。その第一は、高慢な心でありプライドです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるのです」(コリントの信徒への手紙一 2:14)とパウロは教えています。

つまり自分の罪深さを知ることが人間にとって最も難しいことであり、それを妨げているプライドを聖霊が打ち砕いてくださらなければ、私たちは福音を受け入れるとはできません。聖霊は私たちが福音を受け入れる妨げとなっているプライドを取り除くと同時に、私たちが福音を信じることができるように働いてくださいます。