21.「王」の働き

王の主な仕事は、国民を従わせて国を治めること、攻めてくる敵から国民を守ることです。その結果、国が安定し繁栄するなら、その王は良い支配者であると言うことができます。しかしその反対に、国が敵に滅ぼされ国民が奴隷になるなら、その王は悪い王と言わなければなりません。そして王としてのキリストの評価も基本的にそれと同じでよいのです。

勝利者になるか敗北者になるか、支配者になるか奴隷になるかは、だれが自分の王であるかで決まります。この原則は、実際の戦争だけではなく、霊的な日々の戦いでも同じです。つまり私たちが「勝利の人生」を歩むか「敗北の人生」を歩むかは、第一には誰を人生の王とし、誰に従っていくのかという選択にかっているのです。

どんなに強い兵士でも、自分の王が戦いに敗れるなら敵の奴隷とならなければなりません。不真面目に生きる者は必ず不幸になるのは、どんな場合にも当てはまる普遍的な原理ですが、その反対はいつでも真理ではありません。真面目に努力する人が必ずしも幸福で充実した人生を歩むとは限らないのです。

神の子イエス・キリストを自分と自分の人生の預言者・祭司・王として選んだ者が、クリスチャンと呼ばれる人々です。それまでの私たちの王は罪であり、罪が私たちと私たちの人生を支配していたことをクリスチャンは知っています。罪が思いのままに、私たちと私たちの体を支配しその目的のために用いていたのです。

パウロはそのようなクリスチャンの以前の状態を「罪の奴隷」という強い言葉で表現しています(ローマの信徒への手紙 6:6)。口は本来、真理を語り、神を賛美し、悲しんでいる者を慰め、苦しんでいる人を励ますために神から与えられた器官です。しかしそれが本来の目的のためではなく、うそをつき、神を呪い、他の人を傷つけ非難するためにも口を用いることができるのです。そして目や手や足、またその他の体の器官も同様です。たとえば脳には、想像力というすばらしい機能があるのですが、「こうなったら、どうなる。ああなったら、どうなる」と、想像力が思い煩いのために用いられるかもしれません。

しかしキリストを王として選択したクリスチャンは、もう罪に思い通りにされてはなりません。王であるキリストは、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださったからです。しかしクリスチャンになって、全く新しい口や全く新しい手や全く新しい足になるのではありません。クリスチャンになれば、もう汚い言葉や悪い言葉がいっさい出てこない、美しく清らかな言葉だけが出てくる全く新しい天国の口に変わったのではありません。クリスチャンになっても前と同じ口、前と同じ手、前と同じ足であるはずです。

ではクリスチャンになれば何が変わるのでしょうか。それは口や手や足を動かし用いる心です。新しい心が与えられ、前とは異なる動機で、以前と違う目的のために、口や手や足を用いることができるようになるのです。たとえば、それまでは自分の目的のためにしか用いなかった手や足を、新しい王であるキリストのために用いるようになるのです。

以前は罪が私たちの魂を支配していました。私たちの魂は罪という王が支配する領域であり、キリストの支配は及ばない外国であったからです。しかし、キリストの十字架の死によって罪と死の支配は終わり、私たちの心の中に新しい王であるキリストの支配がはじまったのです。

キリストは私たちの体を強制的に用いる暴君ではありません。ムチや強制は新しい王とその支配にふさわしくないからです。神の独り子の十字架の死によって罪の支配から解放され新しくされた心が、新しい動機によって、新しい目的のために、自分の口や手や足を用いていく自由な選択が与えられたのです。

誤解してはなりません。クリスチャンになれば自動的に、美しい言葉や親切な言葉だけが口から出てくるのではありません。罪の支配の下にあったときは選択がありませんでした。しかし罪の支配から解放された今は、私たちを迫害する者のために祈る選択も加わりました。新しい王の支配はムチによる強制ではないため、それを自分で選び取っていかなければならないのです。私たちの義務は聖霊の力に信頼し、御言葉に従っていくことです。