20.「祭司」の働き

預言者以上に必要となったのは祭司です。正しい道を知らされるだけでは十分ではなくなったからです。たとえ目的地に着いても門の中には入れなければ来なかったのと同じです。罪のため人は神の前に出る資格を失ってしまい、そこで神と人の間に入ってとりなしをする祭司が必要となったのです。

祭司の職務は、「罪のための供え物やいけにえを献げる」(ヘブライ人への手紙 5:1)ことです。人々は昔、山の神や川の神のたたりを恐れていけにえを献げました。聖書に命じられている供え物やいけにえは、そのような供え物と同じ意味なのでしょうか。

その答えは「イエス」&「ノー」です。驚くべきことに、いけにえを受ける側の怒りに関係しているという点ではどちらも共通しています。ただしその怒りの性質は全く異なっているのです。いけにえはいつでも、いけにえを供える対象の怒りを静めるためのものです。そのように言うならまた、「愛の神の怒りをしずめるとはどういうことか」と憤慨されるでしょうか。

神の私たちに対する怒りではなく、私たちの側の神に対する怒りをしずめて、神と和解させると言うなら納得できるかも知れません。十字架の愛によって、かたくなな私たちの心をやわらげ、神に対する怒りを取り除き、神と和解させるのが、いけにえの目的なのでしょうか。それはすべて誤りではありませんが、それがいけにえの第一の目的であると言うなら聖書の答えと完全に異なっています。いけにえの第一の目的は、あくまでもいけにえを受ける側の怒りをしずめることであるからです。つまり怒っているのはやはり神であるのです。

ローマの信徒への手紙をはじめから順に読んでみてください。そして、「怒り」という言葉が出てきたとき、だれが怒っているのかを調べてください。「神は天から怒りを現されます」(1:18)。「あなたは、かたくなで心を改めようともせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(2:5)、(2:8)、(5:9)。いけにえは、やはり神の怒りをしずめるために供えられたのです。

私たちの怒りは感情的な怒りですが、神の怒りは法的な怒りです。たとえば、裁判官が法をおかした犯罪者に持つような怒りです。つまり法に違反した者に、法はふさわしい罰を違反者に与えなければなりません。

旧約の祭司の主な仕事は、神に供え物やいけにえを献げることです。とくに重要な行為は、動物の犠牲の上に手を置くこと、祭壇に血を塗ること、そして血を注ぎかけることです。(レビ記 1:4)。動物のいけにえの上に手を置くことは、人の罪がいけにえに乗り移ったことを表す象徴的な行為です。つまり本来は罪をおかした本人が、神から罰を受けて血を流して死ななければならないのに、動物のいけにえが代わって血を流し神の罰を受けてくれるのです。そして神がその犠牲を受け入れてくださるとき、イスラエルの民の罪もゆるされるというのです。

祭司であるキリストは、旧約の祭司と同じように、細かく記された犠牲の律法に忠実に従いました。旧約の祭司と違っているのは、いけにえの種類です。旧約の祭司は、動物の犠牲と血をたずさえて聖所に入りましたが、キリストは自分自身という犠牲と自分自身の血をたずさえて聖所に入られたのです。

旧約では、祭司と犠牲は別々です。しかしキリストは祭司であり同時に犠牲の献げ物でもあり、旧約で別々であったものが新約では一つとなりました。

旧約と新約のメッセージは同じであり、どちらも神の小羊、イエス・キリストの十字架の血による罪のゆるしとあがないです。ただそれを表現する方法と豊かさが異なっているだけです。

キリストは、私たちの身代わりとなって神の律法の要求する罰を受けてくださいました。執行猶予も温情酌量も受けることなく、余すところなく罪の罰を受けられたのです。だからこそ十字架は極限までむごたらしいのです。神は祭司キリストが献げた犠牲を受け入れてくださいました。エルサレムのゴルゴタという祭壇に血が流され、犠牲は天の聖所にささげられました。

神御自身が犠牲を準備されました。救いは最初から終わりまで神の行為です。気まぐれな人間の行為や思いによるのではないことを感謝します。神の義と、神の愛が十字架でぴったりと出会いました。神の義がいささかもキズつくことなく、神の愛が完全に示されたのです。