2.「自然啓示」

神はいるのかいないのか。どんな神なのか。何人なのか。人類にとって最大の問です。そしてこの問に対しては実に様々な考え方があるのです。

ある人は「神などない」と言い、ある人は神は存在すると言います。どちらが正しいのでしょうか。神は存在すると考える人々の中でも、神のイメージは無数にあり、さらにそれぞれの神は互いに全くと言ってよいほど異なっているのです。

でもなぜ神についてそんなに多くの考えがあるのでしょうか。それは自然という本には様々な読み方があるからです。「神について知りうることは、彼らに明らかだからです。それは神が明らかにされたのです。神の見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマの信徒への手紙 1:20)。

自然すなわちパウロの言葉では「被造物」は、神の存在はもちろん神がどのようなお方であるかも雄弁にそして明確に語っているというのです。しかし、みんなが好き勝手に自然という本を読んだため、世界にはこんなにも多くの神が存在することになりました。

まず自然と被造物から、神など存在しないと読んだ無神論者があります。神は存在しないかのように生きている実質的な無神論者があります。

神を信じると言いながら「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り換えた」(同 1:23)人々もあります。大宇宙は神の力と支配を雄弁に宣言しています。大自然は神の知恵と秩序を全被造物に明確に告げています。

さらに自然とは少し違う仕方でも神はご自分がどのようなお方であるかを人間に知らせているというのです。ローマ書の2章では、神は教会がないところに住む人々にも道徳的なメッセージを語る手段をも持っておられることが語られます。「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、またその思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(同 2:15)。「良心さんは声が大きい」という言葉は本当だと思います。そして良心も神が存在することを証ししています。

自然や良心を通して神はご自分を明らかにしておられるのに、どうして神を信じない人があるのでしょうか。先ほど引用した箇所のもう少し前にある「妨げる」という言葉の中にその答えがあります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されました」(同 1:18)。

自然啓示自体は神を知らせるのに十分であるにもかかわらず、人間にとって都合の悪い真理は、否定したり都合が良いように曲げてしまったからです。それが無神論や偶像礼拝が存在することに関する聖書の説明です。

自然や良心が証ししているような、人間の心の中まですべてを知りつくしているような神がいては都合が悪いのです。そこである人々は、神などいない神は人間が作ったものだと考え、ある人々は人間の願いをかなえてくれる自分にとって都合の良い神を考え出したのです。ある人々は積極的に神の真理と戦い、ある人々はそんなことは考えないようにして生きているのです。

パウロはその結果として人間の心に起こったことをこのように記しています。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(同 1:21)。プライドの結果、「心が鈍く暗く」なったのです。心が暗くなりすぎ自然啓示を読み取ることができなくなりました。真の神の栄光も見えなくなり、自分が輝くことを第一に考えるようになり、しかしますます心は暗くなっていきました。