19.「預言者」の働き

現代は情報の時代です。情報があふれています。しかしすべての情報に接してから、何が正しいのかを判断するには人生は短すぎます。預言者とは情報の提供者です。クリスチャンとは、キリストを救い主と信じて救われた人のことです。これは多少あいまいな表現であり、もう少し正確に言うと、キリストを預言者、祭司、王として受け入れた者がクリスチャンです。

預言者としてのキリストは、何を知るべきか、何を知るべきでないかを私たちに教えてくれるのです。知るべき情報は、私たちを罪から救うための神の計画です。

これから毎日、顔を合わせる結婚相手について、名前と年齢を知っているというだけでは満足しないでしょう。ましてや、自分の救い主についてはもっとそうであるはずです。一生このお方と付き合うのですから。いや、キリストは死のむこうまで、永遠に付き合うお方であるのです。

キリストは低い状態でも、高い状態でも、預言者、祭司、王です。「低い状態」とは、受肉から墓に葬られるまで。「高い状態」とは、復活から再臨まで。キリストは、地上に来てからも、その後、天に上ってからもずっと預言者の働きをしておられるのです。

キリストの預言者職は、とくに生涯のはじめの頃に目だっていました。キリストの預言者としての働きは、大きく二つに分けられます。一つは言葉によるものです。神ご自身と神に関する事柄を人々に伝えました。神の愛について、神の恵み深い計画について、神の民としてどのように生きるべきかを説教しました。最も代表的な箇所は言うまでもなく、マタイ福音書5章から7章にある「山上の説教」です。預言者は、日常語ではっきりと、ことわざや種まきや魚釣りなどのたとえ話によって分かりやすく人々に語りました。しかし、多くの人々は理解しなかったのです。

キリストの預言者としての働きは、言葉によるものだけではありません。実はそれよりもっと重要な預言者としての働きがあるのです。キリスト御自身が、神を語っているからです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ福音書 1:1)。人の言葉はその人が何を考えているか、その人がどういう人であるかを伝えます。そのように、キリストは神を伝える言葉そのものであるのです。キリストを見れば、神がどなたであるか、神がどういう方であるかが分かります。

キリストは今も預言者として働き続けておられます。キリストは天に上り、そこでゆっくりと休息をしておられるのではありません。イエスは言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ福音書 5:17)。

地上にはもはやキリストの体はありません。昔弟子たちに語られたように、私たちにも語ることはできません。しかし今は、日曜日の朝、札幌の教会でも鹿児島の教会でも主イエスの言葉を聞くことができるのです。

預言者であるキリストは、今、聖書を通して私たちに語りかけます。聖書には、主イエスの口から出た言葉が記録されています。しかし、それだけが主の言葉ではありません。旧約の預言者を通しても、語っておられます。使徒の口、使徒の手紙も、キリストが語る手段です。私たちは、主イエスの弟子たちよりもはるかに大きな恵みと特権にあずかっているのです。

キリストが地上を去ろうとしているとき、弟子たちに言われました。「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハネ福音書 16:7~8)。「弁護者」とは、聖霊のことです。キリストが天に移られた今は、キリストは聖霊によって語ります。聖霊は一人ひとりのクリスチャンの内に住んで導いてくださるのです。

聖霊は通常、聖書の言葉と共に働きます。今は、神の啓示が完結している時代であるからです。聖書を通して神はすべてのことを、語ることができるのです。

とはいっても、私たちは自分では聖書の一行も理解することができません。文字は読めても霊的な意味を理解することはできません。ですから、聖書が少しでも分かったならば、聖霊がともにいてくださると確信してよいのです。

主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書 14:6)と言われました。イエスは命にいたる道を教え、命に関する真理を示す預言者です。キリストは道を教えるだけでなく、道そのものでもあるからです。道を教えてもらっても、まだ目的地に着いたわけではありません。目的地に行く道の途中のどこかにあるのです。しかし、イエスを預言者として持つことは、目的地に向かっていると同時に、目的地にすでに着いたともいうことができるのです。このお方自身が目的地であるからです。