18.キリストの仕事

一人の人が二つの職業をもつことを「二足のわらじを履く」と言うのであれば、キリストは「三足のわらじ」です。キリストは預言者、祭司、王という三つの職業を兼ねていたからです。これは旧約時代のイスラエルの指導者の三つの代表的な職業です。

キリストの三職はエデンの園でおこった出来事と密接に関係しています。そこで神と人が罪のために引き離されてしまいました。しかし神は、罪を犯した人を見捨てるのではなく、その後ただちに恵みの契約を結んで、人を罪から解放することを約束してくださいました。この恵みの契約の仲保者が救い主イエス・キリストです。そしてこの仲保者の働きが、預言者、祭司、王の働きなのです。でもなぜ、この三職なのでしょうか。それを知るためには、やはりエデンの園に戻る必要があります。

神は人を、男と女に、ご自分の知識、義、きよさに似せて、被造物を支配する者として造られました。「神に似る者」あるいは「神と共通する部分のある者」として、人は創造されたという意味です。狭い意味での神のかたちは、エデンの園で罪によって失われました。そのために人は、真の神がだれであるか、どのようなお方であるのか、神は人に何を求めておられるのか、など神に関することが分からなくなってしまいました。すなわち人は神の知識を失い、神の知識を預かる「預言者」であることをやめたのです。

人はまた、神の義を失い、正義の神の前に出る「祭司」であることをやめてしまいました。エデンの園で、人は「王」として他の被造物を治める職務を与えられました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地をはうすべてを支配させよう」(創世記 1:26)。しかし、被造物の「王」である人は、罪の「奴隷」に落ちぶれてしまいました。人は本来、神の前に預言者、祭司、王として造られながら、罪によって大部分を失ってしまいました。それゆえキリストは、預言者、祭司、王としての職務を果たすために来てくださったのです。人が失った三つの職務を回復するためです。

預言者としてのキリストは、私たちの頭を救うためです。キリストが預言者として来られたのは、人が罪によって無知になったからです。

祭司であるキリストは、私たちの「心」を救うために来てくださいました。多くの人は、死について考えようともしません。死はもっとも考えたくない話題です。死の向こうにある神の罰を恐れているのです。心のどこかで、無意識に、人はみな神の裁きがあることを知っているのです。キリストは死の恐怖を取り除きました。キリストは私たちの身代わりになって、罪の罰を十字架で受けてくださいました。キリストの十字架の血によって、だれでも神にもっとも近いところまで行けるのです。旧約の大祭司よりも、私たちは大きな特権をもった祭司であることに感謝をしなければなりません。

王であるキリストは、私たちの「意志」を救うためです。人は最初、被造物の王として造られました。世界の中にあるすべてのものを、神の栄光のために用いるためです。人はすべての被造物を支配する王として造られたにもかかわらず、自分自身でさえも治めることのできない罪と自我の奴隷になってしまいました。何かをしようとするとき、まず頭で考えます。理性が働きます。頭が考えたことを心が納得します。そして、意志がそれを手や足に命令して行動をおこすのです。正常なこのような関係は、罪によってめちゃくちゃにされてしまいました。理性ではなく、感情や欲望が私たちを王のように支配してしまいます。好きとか嫌いという感情が、私たちの判断や行動を決定してしまいます。しかし、キリストの十字架によって、私が私自身を治める王となることができるのです。

救いは、キリストを預言者、祭司、王として受け入れるかどうかにかかっています。キリストは預言者、祭司、王として、どれも完全にそれぞれの職務を果してくださったからです。旧約の預言者、祭司、王は、みんな不完全な者ばかりでした。真の預言者、真の祭司、真の王を待ち望まなければなりませんでした。キリストは旧約の預言者、祭司、王の成就であるだけでなく、旧約聖書全体の完成であり成就です。このお方の中にすべてがあります。私たちの全人を救うのに十分なお方です。