17.「罪からの救い主」―二性一人格―

救いは恵みの契約の仲保者であるイエス・キリストにすべてがかかっていると言ってもよいでしょう。言い換えれば、キリストがどのような方であるかを誤って理解するなら救いの全体が誤ることになります。あいまいに理解するなら、救いもあいまいになってしまいます。「イエス様さえ信じていれば、難しいことはいらないのでは」ということはあまりにも危険な考えです。エホバの証人や統一協会も「イエス・キリストを信じている」と告白をしているからです。

教会の歴史の中では、キリストの人格に関する誤りが、姿を変えていつの時代にも現れてきました。もちろん現代も例外ではありません。異端を見分ける二本の柱は、「三位一体」とキリストの「二性一人格」の教理であり、異端は、どちらかあるいは両方を否定しているのです。サタンは自分たちを計る「正しいものさし」をやっきになって狂わせようとしているからです。

三位一体の神が人となったのではありません。三位一体の第二人格である、子なる神が人となられたのです。「神が人となった」という言い方は少しあいまいであり、誤解の可能性があります。「神の子が人となった」と言えば、もう少し正確になるでしょう。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書 1:1)。神が人の姿になったのではありません。中身は神のままで、外観だけが人の姿になった。人のぬいぐるみをかぶった神がキリストである、というのでもありません。

神が人に変わったのでもありませんし、神であることをやめて人となったのでもありません。神でありながら、同時に真の人となられたのです。キリストの二性一人格は教理的に、「三位一体の第二人格が人となられた」と要約することができます。教会では通常それを「神が人となられた」、あるいは「神の子が人となられた」などと言っているのです。神であるままで、同時に人となられたのです。半分が神で、半分が人間なのでもありません。100パーセント神であり100パーセント人である方、それが恵みの契約の仲保者、私たちの救い主、イエス・キリストです。

旧約聖書はキリストが神であることを告げています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」(イザヤ書 9:5)。新約聖書にはキリストの神性を教える無数の箇所があります。その中でも、ヨハネとパウロは特にそのことを強調しています。「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。」(ヨハネ福音書 1:1)。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(同 1:18)。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(同 3:18)。その他はっきりとキリストが神であると語るもの、神の性質をもっていると語るもの、様々です。

その神の子キリストが、マリアより生まれ人となりました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む」(マタイ福音書 1:23)と記されています。つまり、私たちの母親が私たちを身ごもって生んだ時と同じです。マリアは普通の人と同じように、イエスを出産しました。神の子が人となられたのです。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」(ヘブライ人への手紙 2:14)。キリストは人類の一員になられました。

もしキリストが、単なる立派な人であるなら、やはりアダムの子孫でありアダムの罪を受け継ぐ罪人にすぎません。キリストがもし、単なる立派な人であったなら、キリストも自分の罪のために十字架にかかられたことになります。人々の罪をあがなう働きはできません。

人でない者は人を代表することはできません。人でない者が、人の身代わりになって罪の罰を受けることはできません。キリストはマリアから生まれることにより、完全な人となってくださいました。罪を受け継ぐことなしに人となられたのです。

人間の仲介者はしばしば失敗します。しかし、キリストは神と人とを仲介する仕事をやりそこなうことはありませんでした。