16.「契約」の更新

恵みの契約はその後、聖書の中でたびたび姿を変えていきます。日米安保条約やアパートの家賃の契約が更新されるように、時代の変化とともに恵みの契約も更新されていくからです。契約の本質と内容は不変ですが、表現を変え、新しい要素が加わり、契約としてさらに充実した姿と内容になっていきます。そして、新約聖書に記されるキリストの十字架で頂点に達するのです。恵みの契約の進展を見ていきましょう。

ノアの物語(創世記6章~9章)の中心は、神とノアとの契約であり、9章12節に要約されています。

創世記3章15節の原始福音にくらべると、もう少し整ったかたちで恵みの契約が示されています。契約書の印もはっきりと示されています。虹という印を見て、神はノアとの契約を思い起こすというのです。虹を見ているのは私たちだけではありません。神も虹を見ておられるのです。私たちは一箇所にいて、雨の後などときどき虹を見て喜びます。しかし神は天上からいつも虹を見ておられるのです。ですから、ノアとの契約が忘れられることは決してありません。地球上のどこかには、必ず虹が出ているのですから。

アブラハム契約は、創世記15章1節から21節と17章7節と8節に記されています。アブラハム契約では、ノア契約とは対照的に霊的な内容が強調されています。契約は「わたしは、あなたの神となる」という言葉に要約されます。宗教は神に近づこうとします。修行や善行や悟りを開くことによって。しかし、恵みは言います。「わたしは、あなたの神となる」と。神が私たちに近づいてくださる、これが恵みの契約の内容であり福音なのです。

アブラハムのときは民族的であったのが、国民的になることがシナイ契約の第一の特徴です。アダムやアブラハムと結ばれた契約は、今度はモーセを通して更新されました。シナイ契約は、出エジプト記19章以下に記されています。かなりの量です。国家であるイスラエルにふさわしい内容と分量であり、国の法律を思わせるほどです。その中でも最も良く知られているのは、言うまでもなく20章にある十戒です。

しかしここで誤解をしてはなりません。シナイ契約は「行いの契約」へ逆もどりしたのではありません。シナイで与えられた律法には、確かに多くの命令が記されていますが、それも実は恵みの別の表現であるのです。

自分で自分の姿を見るためには鏡が必要です。自分の心の状態を見るためには、神の律法という正しい鏡が必要になります。律法は高慢な心を打ち砕き、罪を知らせ、キリストの十字架のもとに私たちをつれていってくれる神の恵みです。そしてさらにキリストの十字架によって罪ゆるされた者が、今度は神の律法を守ることができるようにされていくのです。

儀式律法の中で恵みの契約が象徴的にあらわされています。レビ記は、主に儀式律法を記した代表的な書であり、その中でももっとも中心的な儀式は、犠牲に関するものです。動物の犠牲は、罪をおかしたイスラエルの民の身代わりです。ほんとうは、罪をおかした張本人であるイスラエルが罪のために死ななければなりません。しかし神は動物の犠牲を身代わりとして受入れ、罪を告白して悔い改める者の罪をゆるしてくださるのです。

旧約聖書で更新をくりかえし、よりはっきりと姿をあらわしてきた恵みの契約は、新約聖書で頂点に達します。旧約聖書と新約聖書の内容は同じです。ともに恵みの契約の書であり、この契約の内容が福音とよばれているのです。つまり旧約聖書の中心的なメッセッージも、キリスト御自身が証明している通りキリストの十字架による救いであったのです。「あなたたちは聖書のなかに永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しする者だ」(ヨハネ福音書 5:39)。旧約は型や影や模型である儀式を語り、新約は本体であるキリストの十字架を語ります。