15.「恵みの契約」

聖書は旧約聖書と新約聖書から成っています。「約」は契約の約です。聖書とはそもそも「神の契約の書」であるのです。あらゆる悲惨の根源である、罪からの解放に関する神と人との契約を記したのが旧約聖書であり新約聖書です。

人が「行いの契約」を破ったために、神は「恵みの契約」を結んでくださいました。これこそが、福音であり、良い知らせなのです。契約の内容はどちらも永遠の命であり、二つの契約の主な特徴はそれぞれの名称があらわしている通りです。「行いの契約」では、永遠の命が与えられるかどうかは人の「行い」にかかっていました。私たちがよく知っているように、アダムはこの契約を破り、永遠の命を受ける資格を失いました。

新約聖書は、行いによって人はもはや神の祝福を受ける可能性はないと断言しています。「正しいものはいない。一人もいない」(ローマの信徒への手紙 3:10)。「善を行う者はいない、一人もいない」(同 3:12)。ですから「行いの契約」を人が破った後、ただちに「恵みの契約」が結ばれました。「恵みの契約」ですから、永遠の命を受けるかどうかは、人の行いではなく神の恵みにかかっているのです。聖書とは、恵みの契約がどのように実現されていくかを記した書物であると言ってもよいでしょう。聖書から有益な道徳的な教えを見いだすことはできるでしょう。また、そうすべきです。しかし、「恵みの契約」を知らないで聖書を読んでも、契約の書として聖書を読まなければ、本当に聖書を読んだことにはなりません。旧約聖書も新約聖書もまだ一度も読んでいないと言わなければなりません。

「恵みの契約」が最初に聖書にあらわれるのは、人が罪を犯して堕落した直後の創世記 3章15節です。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」ヘビの頭が砕かれる前に、ヘビは地を這いまわるものとされます。頭が砕かれるための準備の段階です。これはヘビに対する神の呪いの言葉ですが、その中に罪人に対する恵みが隠されており、救いの約束が含まれています。これは教理的には恵みの契約と呼ばれています。この段階では契約は十分な形になっていませんが、少なくともそこには契約の基本的な要素が見られます。それゆえに、3章15節は「原始福音」としばしば呼ばれています。原始的な形での「恵みの契約」、すなわち「原始福音」です。

神はヘビに対して宣告しました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。」ヘビと人が、互いに敵になるという意味です。アダムとエバは、神は不親切な敵でヘビが親切な味方であると判断し、神の命令に反して善悪の知識の木から取って食べました。それ以来、人はヘビを味方と思うようになってしまいました。罪深い誘惑に人は魅力を感じます。聖書が示す正しい生きかたなど、窮屈で不自由だと思います。自分の思いどおり、希望どおり生きられるのが最高の自由だと思っています。

そのようなヘビとの関係を、人はどうすることもできなくなってしまいました。神はそのような関係に、「わたしは敵意を置く」と言われたのです。「わたし」とは神であり、原始福音の文章の中で最も重要なことばです。すなわち人間が修行をして敵意を置くのではなく、神が敵意を置くのです。「神が」ヘビと人の間に敵意を置いてくださるとき初めて、ヘビの誘惑を見破ることができるという意味です。つまり自分の罪に気がつきはじめるのは恵みによらなければなりません。そして罪の生き方は、一時的には楽しそうに見えても、最終的には悲惨であることが分かるようになるのです。